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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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50.昔話 ⑧ 連鎖と継承

 文化六年、治兵衛が十七歳の年。

 大坂で流行り病が猛威を振るった。

 その年の十一月から患者が増え始め、あっという間に広がった。

 しかし、医者らが奔走して翌年の二月頃に収束に向かい、多くの命を奪って五月頃に漸く終息した。


 医者であった玄斎の父が十二月の初めに亡くなり、その数日後に松好斎が亡くなり、年が明けた一月に松好斎の師であった流光斎如圭が、二月には治兵衛の母が亡くなった。


 文化六年十一月下旬。

 雪好、真好、露好、そして治兵衛も相次いで全員が病に(かか)った。

 しかし、松好斎がいち早く薬を手に入れ、全員症状が軽いうちに治すことができた。

 ただ、松好斎は薬を飲んでいなかった。

 それが分かったのは松好斎が亡くなり、葬儀の用意をしていた、十二月半ば頃だった。


「盗人が入ったかもしらんっ」


 真好がそう言うので松好斎の部屋に全員が集まった。

「先生の筆も一張羅も金目の物が何もないんや」

 真好の言葉に道具箱や押し入れ、長持などを探す。

 確かに明らかに物が減っていた。


「わしの(もん)も盗られとるかもしれんっ」

 露好が慌てて自室へ駆けて行くのを「心配いらへんっ」と雪好が止めた。

「ちょっと薬屋行って来る」

 雪好の言葉に全員が首を傾げた。

「誰が必要なんや?」

「確かめたいことがある」

 露好の問いに雪好はそう言って家を出て行った。


 そして、しばらくして戻って来た時の表情は暗かった。

「……先生は薬を飲んでへんかったんやと思う」

 雪好の言葉に真好と治兵衛は漸く気づいた。

「薬代にしたんか……」

 治兵衛が呟くと、雪好が静かに頷き、露好がハッと目を見開いた。

「流行り病のせいでいつもより薬代も(たこ)うなっとったらしい。それにわしら全員分の薬を買うとなると……」

「ほなら、先生はわしらのせいで……」

 雪好の説明に露好がその場に崩れ落ちた。


 松好斎の葬儀を終え、年は明けて文化七年一月。

 この年は大坂の町は静かな正月を迎えていた。

 新しい年を迎えたという雰囲気はあまりなく、絵師としての仕事もしばし休むことになり、寂しい正月だった。

 元々静かな人だったが、主を失った家の中は弟子らの会話も少なくなり、悲しみに包まれていた。

 そこかしこに松好斎の面影が残り、まだ家のどこかにいるのではないかと探してしまう。


「流光斎先生も亡くなったそうや」

 一月下旬。松好斎の師である流光斎如圭の訃報も届き、雪好が代表して弔問に行った。

 そして、戻って来た雪好は治兵衛に神妙な面持ちで母の危篤を伝えた。


「春好、手遅れになる前に()うておき」

 雪好にそう言われたが、治兵衛は首を横に振った。

「なんでや? 勘当されたんやなかったて、誤解は解けたはずやろ? せやったら堂々と見舞いに行ったらええやないか」

「……それは雪好兄さんから聞いたことや。父はまだ俺に隠しとるつもりや。せやから俺が今戻ったら、おかしなことになるさかい」

「わしは危篤や言う話を直接御父上から聞いたんや。流光斎先生のとこから帰る途中、山本屋まで行って来たんや。客商売やさかい、誰かしら病に罹っとる思うたら……もう(なご)うないて。今すぐ見舞いに……」

「行かへんっ」

 治兵衛はそう言って奥の部屋へと引っ込んだ。

「後悔するでっ」

 露好がその背にそう叫んだが、結局治兵衛は見舞いに行かなかった。


 そして、病の広がりが落ち着き始めた二月の半ば頃。

 母の訃報が届いた。

 雪好からそれを聞いた治兵衛は気丈に振る舞っていたが、こっそり母の葬儀を遠くから静かに手を合わせて見送った。

 結局、母とは八歳の時に会ったきりで何年も顔を合わせていなかった。

 だから、涙は出ないと思っていたのだが、遺体も見ていないのに込み上げて来る想いと一緒に涙が溢れた。


 その帰り道、治兵衛は往診に行く玄斎と会った。

 治兵衛の家のかかりつけ医が玄斎の父だった縁で、二人は幼馴染だった。

 だが、八歳で絵師の道へ進んだ治兵衛はそれ以降玄斎と会うことはなかったため、道で会った時、初め外見では互いに気づかなかった。


「藤村の若先生。先日はおおきにぃ」

 不意にそう呼び止められ、挨拶している姿を見た治兵衛が玄斎に気づいたのだった。


玄兄(げんにい)か?」

「どちらさん……まさか、治兵衛か?」

 治兵衛が声を掛けると、怪訝な表情から驚いた表情へと変わった。

「せや。久し振りやなぁ。玄兄ももう立派な医者やな」

 治兵衛が玄斎の姿を見てそう言うと、玄斎の表情は曇った。

「……全然立派やない」

 その言葉に治兵衛が何かあったのかと問うと、玄斎の父もまたこの流行り病で亡くなったのだと言う。

 幼い頃から父の手伝いをし、いずれは医者を継ぐことが決まっていたとはいえ、まだ一人前とは言い難かった。

 それが突然、父が亡くなったことで否応なく一人立ちしなくてはならなくなった。

 それで父の葬儀を終えるや否や、喪が明けぬ内から往診を再開し、哀しむ間もなく忙しくしているのだと玄斎は語った。

「これからまだ往診が五、六件あるさかい。すまんが、これで」

 その場ではそのまま別れた。

 足早に去る玄斎の背に治兵衛もこの先の自身の身の振りについて考えた。


 松好斎が亡くなった今、治兵衛には師がいなくなった。

 兄弟子が三人いるが、彼らも新たな師を探すか自立するかで悩んでいた。

 これまで通り変わらず、皆と一緒に絵を描きたい。

 治兵衛はそう思っていたのだが、版元の考えは違った。


此度(こたび)の流行り病で、ここ数カ月、版元も回っとらんかった。先生が亡くなったんも重なって(いとま)を貰えとったが、そろそろ絵を描かなあかん。それで版元に顔出して来たんやが……」

 治兵衛が家に戻ると、居間に全員を集めて雪好が今後について話し合いの場を設けた。

「これまでは先生の名があったさかい、絵の注文があったようなもんや。せやけど、わしらだけやと大して銭にならん。今は合作の話しかない。これがわしらの現実や。これやと食い繋ぐんも難しゅうなる」

「せやかて今の上方に名のある絵師はおらへんで。わしらは松好斎の門人や。歌川派や江戸の絵師の門人に鞍替えするつもりはあらへんし……」

 露好がそう言うと、真好も静かに頷いた。

「そこでや。春好、お前はうちを出て行き」

 唐突に雪好に言われ、治兵衛は雪好の顔をまじまじと見つめ、その真意を探った。

「なんでや?」

 治兵衛の代わりに露好が雪好に問う。

「お前の絵やったら単独で名を出して売ってもええっちゅうのが版元の意見や」

 兄の結婚祝いに十五歳で肉筆画を描いて以来、治兵衛は春好の名で本格的に絵を描いていた。

 その名を貰ったのは九歳の時であったが、絵師としてその名が世間一般に知れ渡るようになったのはつい昨年、十七歳の頃からだった。

「松好斎半兵衛の写し取るような線やなくて、春好の筆は役者の目には見えへん鬼気迫る内側を大胆に描く。わしらにはない見る者の目を惹くんが(たく)みや。そこを版元はえらく買っとる。それはつまりや、売れる絵っちゅうことや。最近、固定客も付き始めとるらしいしな」

 雪好の言葉に「ホンマかぁ?」と露好が疑いの目を治兵衛に向ける。

 が、真好は神妙な面持ちで腕を組んだ。

「確かに春好の絵は何か胸に響くもんがある。婚姻の祝いに贈った松上の双鶴。実は後で山本屋へ行って見せて(もろ)たんやが、あれはほんまに初めて描いたとは思えへん、見事な(もん)やった」

 真好が感慨深くそう言うと、露好が「わざわざ一人で見に行っとんたんかいな。ずるいで」と騒いだ。


「絵は上手い下手やあらへん。見る者の心に何を残すかや。文字と一緒で何を伝えるか。それが大事や。せやから、何も伝わらん絵は上手いとは言われへん。ミミズが這ったような絵でも人を感動させられたら上手い絵や」

 初めて松好斎と会った時、言われた言葉だ。

 その言葉をずっと胸に絵を描いていた。


 正直、兄弟子らの絵に比べると治兵衛の絵はまだミミズが這ったような絵だ。

 しかし、それでも魂を込めて描いている。


「わしらと一緒におるより、春好は一人で描いた方がええ」

「兄さん達はこれからどないするつもりですか?」

「わしは……どっかの作業場で松好斎の門人として細々とやってくつもりや。長屋の空きも見つけたさかい、今月末にはここから出て行くつもりや」

「なっ。そないなこと、わしらに黙って勝手に決めてきたんかいなっ」

 雪好に露好が詰め寄ると、真好も「わしもそんつもりでおるが」と言い出したので、露好は二人を交互に睨みつけた。

「ここは先生の家や。先生が亡くなりはった以上、弟子が居座ることはできひんよって、それが当然やろ」

 真好がしれっとそう言うと、露好は拳を握り締め、何か言いたそうに口をもごもごとしつつもその口を開けずにいた。


「で、春好。わしらも手伝うさかい、一人で描くことを考えてみぃひんか?」

 雪好の言葉に治兵衛の心は揺れた。


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