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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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49.昔話 ⑦ 親心

 兄からの手紙は短かった。


 やはり徹夜で描いたあの絵は兄への贈り物にされていた。

 絵の礼が冒頭にあり、雪好から受け取ったと書かれていた。

 それから、父から口止めされていることがある、と。

 そしてそれは松好斎と雪好も知っている、とあった。

 絵に画号を入れられるようになったら、話しておきたい、とも書いてあった。


 雪好が知っている。


 そのことに治兵衛は何か腑に落ちる物があった。

 治兵衛に初めに声を掛けたのは雪好だった。

 そして、山本屋に来るのは雪好だけだった。

 今も紙を買いに行く役目は雪好だけが担っている。

 それがずっと疑問でもあった。

 紙を買いに行くなどというのは一番下がやるべき雑用だ。

 それをなぜ一番上の弟子である雪好に行かせるのか。


 そこでふと治兵衛は思い出す。

 幼い治兵衛が絵の手本としていたのは雪好の肉筆画だったことを。


 浮世絵の題材は芝居の役者絵が主で、版画だけでなく肉筆画もある。

 版画は絵師・彫師・摺師・版元が共同で制作するものだが、肉筆画は一人の絵師が線を描き、彩色まで行う完全受注生産の一点物だ。

 量産する版画とは違い、特注品であるため高値が付いた。

 雪好が治兵衛の生家・山本屋に肉筆画を渡していたのも紙代のツケとしてだった。


 父が雪好から受け取っていた肉筆画は雪好自身が描いた物もあったが、松好斎が描いた物も多かった。

 松好斎は人気のある絵師であったが、弟子らの知名度は低かった。

 弟子らの衣食住を世話し、紙や墨、筆などの消耗品など金がかかる。

 絵の道具はどれも安くはない。

 浮世絵の収入だけでそれらを賄えるだろうか。


 いや。無理だ。

 だから、他の弟子には行かせないのだ。

 金の心配をさせないために、秘密にしているのだ。

 治兵衛が増えたことで、さらに金が必要になったはずだ。


 だが、兄が父から口止めされていることはこんな話ではないはずだ。

 一体何を秘密にしているのか。

『絵に画号を入れられるようになったら』と手紙にはあった。

 既に画号は貰っている。

 なら、聞く資格はあるはずだ。

 治兵衛は兄の元へ駆け出したい衝動に駆られたが、その衝動は雪好へと向かった。


「話があるんやけど」

 絵を描いていた雪好の前に立ち、治兵衛はそう切り出した。

 治兵衛の勢いと表情に何か悟った雪好は静かに筆を置いて立ち上がった。


「そろそろ昼飯の時間や。話は飯を食べた後にしよか」

「せやけど」

「長い話になるさかい。それに春好、お前は夕べから何も食べてへんやろ。腹が減っては何とやらって()うしな」

 出端(ではな)(くじ)かれ、治兵衛は仕方なく雪好に従って昼飯を先に摂ることにした。


 昼食後、雪好は治兵衛を奥の間に連れて行き、座らせた。

「文に何て書いてあった?」

 問われて治兵衛は文を雪好に差し出した。

「細かいことは何も。せやから、ここにある父が口止めしとることが何か教えてくれませんか?」

 雪好は文を一瞥しただけで触れなかった。

「わしに聞こうとするんは筋違いや。お前の父親のことや。兄に聞くんが筋やろ」

「……せやけど、兄とは七年(ちこ)()うとりません。正直、何をどう聞いてええか……」

「それは春好、お前の問題や。筋を通さんことの言い訳にはならへんで」

「それやったら、今の俺の兄は喜兵衛兄さんやなくて雪好兄さんです。七年も一緒に住んどるんやし。どっちの兄さんに聞いても俺にとっては筋通したことになります」

 治兵衛に真っ直ぐに見つめられ、雪好は観念したように息を吐いた。

 いずれ話さねばならぬことだ。

 それに雪好は心の何処かでずっとその機会を待っていた。

 口止めされてはいるが、治兵衛の心内を思うと墓場まで持って行くつもりはなかった。


「ほな、喜兵衛さんか清兵衛さんから直接聞くまでわしが話したことは内密にできるか?」

 雪好が話す気になったのを見て、治兵衛は姿勢を正しながら大きく頷いた。


「まずはお前がうちに来た日のことから話さなあかんな」

 そう言って雪好はぽつりぽつりと話し始めた。


 松好斎の家の門を潜った日、雪好は治兵衛を捜し歩いていた。

 版下絵を版元へ納品に行った帰り、治兵衛の家、紙商・山本屋の前を通りかかった雪好は店主らが店先で慌てている様子に何事かと声を掛けた。

 すると、日が暮れ始めたのに息子が帰って来ないという。

 昼間、店の売り物の紙を盗んだのを(とが)めて、つい「出て行け」と言ってしまったせいで、本当に家出してしまったようだ、と店主が深刻な表情で頭を抱えた。

 いなくなったのがあの絵の才のある子供だと聞いた雪好は自分が絵を褒めて焚きつけたことで、紙を盗んでまで描くという愚行に走らせてしまった、と責任を感じ、一緒に捜すと申し出た。

 が、店主は腹が減ったらすぐ戻って来るはずだ、と雪好の申し出を断った。

 断られたからには引き下がるしかなかったため、雪好は勝手に捜すことにした。

 月灯りがあったお蔭で提灯がなくとも歩き回れたが、木戸(町ごとの門)が閉まる刻限が迫って来たため、仕方なく途中で断念して戻った。

 それで夕餉に遅れたのだった。

 だが、戻ってみたならば、なんと家に治兵衛がいて、雪好は思わず笑ってしまった。

 翌朝、山本屋を訪れ、店主に丁寧に事情を話し、本人が飽きるまで絵師見習いとして預かることで了承を得た。

 そして後日、雪好に手渡したのがあの有平糖(ありへいとう)だった。


「皆さんで召し上がってください」

 紙を無償提供するという有難い申し出と共に有平糖を渡された。

「こないなことされて(もろ)うては困ります。元はと言えば私のせいで……」

「いや。あの子に才があるんやったら、どの道こうなっていたと思います。勢いで()うてしもたこととはいえ、追い出してしもうた身故、こうして陰から支えてやることしかでけへんさかい。もし、才がないと思うたら、もし、飽きた言い出したら……そん時は迎えに行きますんで。ただ、私が紙を提供してるんはあの子には一切伝えんでくれはりますか?」

「言わんまんまやと治兵衛はほんまに見捨てられたんと誤解しますよって……」

「それでええんです。修行する身やさかい、逃げ道を()って前だけを見させるくらいがちょうどええ。絵師というのは生温い職やないと知っとりますんで」

 治兵衛の父、清兵衛はそう言って「よろしくお頼み申します」と頭を下げた。


 家に帰り有平糖を見て、雪好は清兵衛の親心を感じた。

 紅白の千代結びの形は単にめでたい物ではない。

 息子の門出を祝い、そして新たな縁を結べるようにと願いが込められているのだと察した。


「せやから、御父上はお前を勘当してへん。今も大事な息子やと思うてはる。お前が誤解したまんま苦しんどるのに、ずっと言えへんでわしも辛かったんや」

 雪好の話を治兵衛は(にわ)かに信じられなかった。

「誤解やあらへんっ。俺が見に行った時は皆笑ってはった。まるで俺なんか初めからおらへんかったように」

「それはわしが朝早う説明に行っとったさかい。お前が無事なんを知ってはったから、いつも通りの生活に戻ってはったんや」

「……ほなら、紙を届けてくれとった言わはったけど、俺は一度も父や兄がここへ来たんを見たことあらへんっ」

「それはお前が版元へ行っとる間や集中して絵を描いとる時に来て(もろ)うてたんや。お前と鉢合わせせんようにな」

 雪好の話は一貫して筋が通っており、矛盾はなかった。

 それなら本当に父を誤解していたのか。

 絵師としての道を認めてくれていただけでなく、陰ながら応援してくれていたのか。

 紙を無償提供するなんて、商売人にとっては大損する話だ。

 それも一枚や二枚なんて物じゃない。

 絵師に紙を提供するということはかなりの量になる。

 それも一度や二度じゃない。

 恐らく治兵衛が松好斎の元にいる限り、永続的に続けるつもりだったに違いない。

 それに有平糖も昔ねだった時は高価だからと断られた。

 それをたくさん差し入れてくれた。


 それを全て黙っていた。

 治兵衛が一人前の絵師になれるように。

 父の想いに治兵衛は項垂れた。

 そして、兄の想いにも、雪好の苦悩にも頭が下がった。


 彼らの想いに恥じぬよう、治兵衛は改めて最高の絵師を目指そうと誓った。

 けれど、その二年後。

 思いもよらぬ悲劇が町を襲った。


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