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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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48.昔話 ⑥ 松上の双鶴

 時は瞬く間に過ぎ去り、治兵衛は十五歳を迎えていた。


 相変わらず兄弟子らの補佐や雑用をこなしつつ、腕を磨く日々を送っていた。

 そんな折、雪好に個別に呼び出された。

 人目につかぬ庭の隅に連れて行かれ、何かやらかしたかと不安に思っていたのだが。


「お前の兄の婚姻の日取りが決まったそうだ。先生の許可も(もろ)うたさかい、祝いに行ってやれ」

 突然のことに治兵衛は驚き、しばし言葉が出なかった。


 家を出た翌日、何も変わらない家族の様子を見てから、治兵衛は一度も家に戻らなかった。

 近くに用があっても、家の前を通る道は避けた。

 それが今になって雪好の口から家族の祝い事を知る。

 その衝撃は兄を祝う気持ちよりも上回り、治兵衛は雪好に背を向けた。


「勘当された身やさかい、俺の祝いなど必要あらへんよって……」

「そないなこと……向こうもお前を待ってはると……」

「急ぎ仕上げな絵が溜まっとるさかい」

 治兵衛はそう言って家の中に駆け込んだ。

 そんな治兵衛の背を雪好は悲しそうに見つめた。


 その日の昼過ぎ。

 松好斎が版元から依頼された絵と必死に向き合っている治兵衛に一枚の絵を差し出した。


「春好。その絵は後回しにして、先にこれを描いてくれへんか?」

「これ……ですか?」

「せや。花札が題材の肉筆画や。わしが鶴を一羽描いたさかい、もう一羽描いて双鶴にして背景に松を描いてんか」

「花札の鶴は一羽やった思いますけど……」

「二羽必要な意味があるんや。寄り添うように仲良う描いてや」

「肉筆画やったら雪好兄さんか真好兄さんの方が……」

「あいつ等は他の仕事頼んどるさかい、手が取れるんはあんたしかおらへんのや。大事な絵やさかい、丁寧にな」

「承知しました。いつまでに……?」

「今日中や。急ぎ頼んだで」

「今日っ?」

 驚く治兵衛を残して、松好斎は部屋を出て行ってしまった。

 治兵衛は松好斎が置いて行った絵を眺めた。

 大きめの紙に描かれた鶴は空を見上げて凛々しく佇んでいる。

 紙は普段使っている物ではなくて、明らかに上質な物だった。

 紙商であったからそれが余計に分かってしまった。


 松と鶴。


 確かに花札にある図案だ。

 でも双鶴となると、しかも仲睦まじい姿となると。

 まさか松好斎がこの絵を描かせる意図は。


「雪好兄さん。先生に兄の婚姻の話、しはったん?」

 治兵衛は隣で筆を執る雪好にそう訊いた。

「先生の許可(もろ)うた()うたやろ」

「あ……せやった」

「どないした?」

「急ぎで絵を頼まれたんやけど……もしかして、兄に贈るつもりやろか?」

「花札の絵の話か?」

「はい……」

「先生の意図はわしには分からへんが、絵師の本分は前に話したと思うが……忘れてしもたか?」

「えっ? 本分て……」

「昔、露好が版元からやり直しさせられて不貞腐(ふてくさ)れとったの覚えとるか?」

 雪好に言われて治兵衛は記憶を辿る。

 確か露好が歌舞伎役者の(あらし)吉三郎(きつさぶろう)の全身を描いて欲しかった版元の意図を無視して、流行りの大首絵を描いたことがあった。

「はい、覚えとります」

「あの時も話したんやが、絵師は描きたい(もん)を描くんやない。趣味やったらそれで問題あらへんが、銭貰うんやったら銭くれる(もん)の意向を汲まねばならへん。意向が分からへんのやったら、今は先生が描けと言った物を言われた通り描く。それが納得できひんのやったら、先生に直接納得できるまで聞き。それがお前の修行や。いずれお前も版元と直接渡り歩かなならん時が来る。一人前の絵師になりたいんやったら、口も使わなあかんで。絵師はな、目と腕があったらええ()う者もおるが、わしはそれは(ちゃ)うと思う。五感を全て使(つこ)てこそ、本物の絵師や思うが……春好、お前はどうや?」

 雪好にそう問われ、治兵衛は松好斎が置いて行った絵を振り返った。


 兄に贈る絵だとしても、そうでなかったとしても、絵は誰かの為に描く物だ。

 銭を貰う為に描く絵は自分の為に描く物ではない。


 松好斎は構図を細かに説明してくれた。

 二羽の鶴を仲良く描け、とも言われた。

 版下絵すらまだ一人で任されたことはない。

 それが肉筆画を任されるのは通常あり得ないことだ。

 これはやはり兄に贈る絵なのだ。

 治兵衛が描かねばならぬ絵なのだ。

 ならば、私情を挟まず師の意向に応えるのが弟子であり、絵師だ。


「ありがとうございます」


 治兵衛は雪好に礼を述べ、鶴に向き合った。

 松好斎が描いた鶴に寄り添うようにもう一羽描き足す。

 違和感がないように真似て描く。

 空を仰ぐ松好斎の鶴に対し、治兵衛は頭を垂れて寄り添う鶴を描いた。

 松は花札では細長い若松が描かれているが、治兵衛は黒松を描いた。

 松には長寿と繁栄を象徴する縁起物だ。

 松の上に鶴を描くのはよくある縁起物の構図だ。


 夕餉を摂ることも忘れ、治兵衛は目の前の絵に集中した。

 周りの声も聞こえず、ただただ筆を滑らせた。


 最後に赤い色で日の出を描いた。

 その時には現実にも日が昇り始めていた。


 気づいた時には治兵衛の側に行燈が三つ、置かれていた。

 道理で暗さを感じなかった訳だ、と治兵衛は兄弟子等の気遣いに感謝した。

 行燈の灯は既に消えていたが、細く開いた縁側の障子の隙間から朝日が射し込んでいた。

 そして、その障子の向こうには二つの人影があった。

 室内を見回すと、部屋の隅では雪好が座したまま眠っていた。

 布団が掛けられているのを見ると、松好斎もこの部屋に来たのだと分かる。


 そこに襖が開き、隣室から松好斎が姿を現した。

 手には握り飯が載った皿があった。


「描き終わったんか?」

「はい。遅うなってしもて申し訳ありません」

「いや、間に()うたさかい、(かま)へん。それより、ええのができたな」

 松好斎はそう言って治兵衛が描いた松上(しょうじょう)の双鶴を見下ろした。

 その目は柔らかく、口許には薄く笑みが浮かんでいた。

「ほな、これは(もろ)うてくで。お前はこれ食べて、少し横になり。雪好が起きたら、わしんとこ来るよう()うてくれるか?」

 松好斎がそう言って部屋を出て行き、襖を閉じると、雪好の目が開き、少しして縁側の障子が静かに開いた。


「出来上がったん見逃してしもた……」

 露好が目を(こす)りながら悔しそうにし、真好はその横で溜息を吐きながら布団を畳んでいた。

 雪好は治兵衛に近寄り、頭に手を置いた。

「よう頑張ったな」

 その瞬間、治兵衛は緊張の糸が切れ、どっと疲れと眠気が押し寄せた。


 初めて自分一人で絵を描いた。

 しかも肉筆画を。

 それに師匠である松好斎に「ええのができた」と言われた。

 達成感と満足感で満たされ、それをもっと味わいたかったが眠気には勝てず、治兵衛は雪好の腕の中に倒れ込むようにして、そのまま眠りに落ちた。


 そして、目を覚ましたのは昼前だった。

 布団に寝かされていて、上半身を起こして周囲を確認すると、枕元には握り飯と文が置かれていた。


 文は兄からだった。


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