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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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47.昔話 ⑤ 絵師・春好

 治兵衛が松好斎の家に来て一年が経った頃。

 いつになく厳粛な雰囲気を(まと)った松好斎が「話がある」と朝早く皆を居間に集めた。


「治兵衛。そろそろ自分の仕事を覚えて、この家にも慣れた頃やと思うが、どないや?」

 改まった空気に治兵衛は何か怒られるのかと不安な視線を松好斎に向ける。

 最初は怒られてばかりだったが、最近はかなり減った。

 雑用ばかりで絵を描くことはなかったが、どれも卒なくこなせるようになった、と思っている。

「……一通りのことはできるようになったと思うてます」

 自信なく答えると、松好斎は軽く頷いた。

「そうか。ほな、そろそろ筆を握るか?」

 突然の申し出に治兵衛は思わず「えっ」と声を上げた。

「まだ一人で絵を描かすことはできひんが、兄弟子の手伝いとして指示されたことを言われた通りにやる。まずはそこから始めてみぃ」

「はいっ」

 治兵衛はやっと筆を洗う以外で持てる、と心躍らせた。

「真好に世話させとったが、これからは雪好、お前が面倒見てやれ」

 松好斎がそう指示すると、真好は安堵したような表情を見せ、雪好は淡々と「はい」と答えた。

「それと、筆を握るからには手伝いとはいえ、画号が必要やな。これより『春好(しゅんこう)』と呼ぶさかい、皆もそう呼ぶように。ええな?」

 皆と同じ『好』という字が入った名前に治兵衛はくすぐったい気持ちになった。

 でも、なぜ『春』の字なのか。

 ふと気になったので治兵衛は松好斎に聞いてみた。


「絵師はな、流派がある。師の名を一字(もろ)て、誰の門人か分かるようにするんが決まりや。せやからうちにおる(もん)は皆わしの『好』という字を与えとる。わしの松好斎言うんも師匠が流光斎(りゅうこうさい)如圭(じょけい)と言うさかい、『斎』の字を(もろ)とる。『しょうこうさい』と『りゅうこうさい』で読みも似とるしな」

 特別な意味はないのか、と治兵衛は少しがっかりした。

 だが。

「それにお前とは春に()うたんが初めやったし、お前の治兵衛()う名の『治』はハルとも読むやろ?」

 春の字にちゃんと意味があったと分かって一転、治兵衛の表情は笑みに変わる。

 治兵衛という名が形は変われど残してくれたことは、とても嬉しかった。


 その日を境に治兵衛は家の中だけでなく、外でも春好と呼ばれるようになり、治兵衛という名で呼ばれることはなくなった。

 それを初めは少し寂しくも思ったが、すぐに自分も(ようや)く絵師の仲間入りをしたのだと誇らしく思うようになった。


 道具の種類に応じた手入れの仕方を覚えたり、版下絵を版元へ届けるなどの雑用をし、筆を握ることはなかった日々から一転。

 兄弟子らの補佐として筆を握るようになって、治兵衛は絵師の過酷さを改めて思い知った。


 この時代、絵師と言えば浮世絵師を指す。

 浮世絵とは錦絵と呼ばれる版画が主で、版元から依頼を受けた絵師が版下絵(はんしたえ)と言って、文字通り版画の下絵となる墨の線描きを作成する。

 絵師の仕事はこの版下絵を描き、色指しといって色指定をする。

 そして、彫師が版下絵を基に木の板を彫り、摺師が紙に刷る。

 そうして出来上がったものを絵師と版元が最終確認して世に浮世絵として出るのだ。

 絵師の名が前面に出るが、絵師一人が仕上げる物ではなく、様々な人達が関わり、たくさんの工程を得る必要がある。

 それ故に絵師には単に絵を描く才だけでなく、交渉力なども必要とされた。


「これのどこが気に入らへんのやろか? 見る目ない(もん)ばっかりや。どっかに目ぇ落として来たんと(ちゃ)うやろか」

 露好は下絵をしげしげと不服そうに見つめ、「どう思う?」と治兵衛の目の前に(かざ)した。

 大坂を代表する人気歌舞伎役者、(あらし)吉三郎(きつさぶろう)の役者絵だった。

 美男でもあり、版元から特に依頼の多い役者でもある。

「構図が悪いな」

 そこに真好が口を挟む。

「どこがや? 今の流行りは大首絵やろ」

「美男やからって大首絵ばかり求められとる訳やない。今回は芝居の一幕を描いてくれ言われとったやろが。それは別の機会に回して、全身を描いたのを描き直しやな」

「そうは()うてもやな、客が求めとる(もん)を描かんと売れへんで? 売れへん(もん)を幾ら描いても銭にならへん。銭にならへんっちゅうことは飯が食えへんっちゅうことで……」

「露好、今回は真好が正しいで」

 じっと傍らで二人の会話を聞いていた雪好が筆を動かしながらそう言った。

「なんでや?」

 露好が不満気な視線を雪好に向ける。

「わしらは版元の依頼で絵を描いて、版元から銭を(もろ)うてるやろ? 客から直接銭(もろ)うてる訳やない。せやから、客の言うことや()うて、版元の言うことを聞くんが筋や。版元との交渉を師匠から任された()うたかて、露好の好きに決めてええっちゅうことやない。せやけど、版元が言うことをなんでも聞いとったら、安う叩かれるさかい。鵜呑みにするんもあかんで」

「せやったら、どないしたったらえかったんや?」

「これも修行のうちや。自分で考え」

 露好はこんな風に版元の意図を汲み取ったり、交渉するのが苦手だった。

 真好も意図を汲み取ることには長けていたが、版元に言われるがまま従ってしまうところがあり、交渉には向かなかった。

 対してそれに長けていたのは松好斎や雪好だったが、今は真好や露好に絵を描く以外の才も伸ばそうと二人を版元との交渉役にさせていた。


「春好。手が止まっとるで。お前はまず綺麗な線を描けるようにならな。まだ時々、震えとるで」

 雪好は治兵衛の方を見ることなく、筆を動かしながらそう叱咤(しった)した。

 治兵衛は筆を握り直す。

 しかし、雪好が描いた絵の背景などを描き込む作業は、自分が失敗して絵を駄目にしたらどうしよう、という考えがどうしても(よぎ)り、思い切り筆を動かすことができない。

 そんな治兵衛の心内を見抜いてか、「駄目にしてもええから」と雪好が一言添えた。


 真好に付いていた時との一番の違いはそこだった。

 雪好は俯瞰した視点を持ち、それでいて細かいところにも気づき、そっと支えるのが上手かった。

 時に厳しく、けれど優しく温かな不思議な雰囲気が治兵衛にとってとても心地良かった。


 三者三様の兄弟子らに囲まれ、治兵衛は春好としての絵師の道を本格的に歩み始めた。


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