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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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46.昔話 ④ 新しい家族

 夕餉の片付けをしていると、玄関の戸が開く音がした。


「えらい遅うなってすんまへん。只今戻りました」

 雪好の声に真好が玄関へ走り、「心配しましたで」と出迎える。

「ちょっとな。知り合いと()うて……」

 二人は話しながら居間へと向かい、その襖の戸を開けた瞬間、雪好は驚いた。

「治兵衛? なしてここにおるんや?」

「知り合いでっか?」

 真好の問いに雪好は頷いた。

「雪好、帰ったか」

「はい。遅うなってすんまへん」

「全員揃ったさかい、少し話しよか」

 松好斎はそう言って、皆を居間に集め、弟子達は松好斎の前に並んで座した。


「飯の時にも話したんやが、今日からこの治兵衛はうちの弟子や。まだ八つやさかい、同じようにはいかんこともあるやろが、特別扱いはせん。まずは基本的なことを覚えるところからや。分からんことは誰でもええから聞き。皆は早う一人立ちできるよう治兵衛(これ)を支えたって」

 松好斎が改めて治兵衛を紹介すると、雪好が深刻な表情で「ええんですか?」と声を上げた。

「まだ八つの子をほんまに弟子にするんですか? 親御はんは……承知しはりますやろか?」

「治兵衛がそう決めて、わしもそれを受け入れた。せやな?」

 鋭い視線を向けられ、治兵衛は俯いて膝の上に置いた手を握り締めた。

「覚悟したんちゃうか?」

 再度問われ、治兵衛は「はいっ」と弾かれたように顔を上げる。


「ほな、改めて紹介する。わしは松好斎(しょうこうさい)半兵衛(はんべえ)。一応、こいつ等の師や。こいつはもう知っとるな。雪好(せっこう)はうちで一番の古株や」

 視線で示したのは先程帰って来た男性で、紙商の家で声を掛けて来た人物だ。

「次が真好(しんこう)。この二人はここでわしと一緒に住んどる」

 門を開けて中に入れてくれた男性だ。

露好(ろこう)は通いやが住んどるも同然やな」

 墨だらけの荒々しい男性だ。

「あとうちは家内も子もおらへんさかい、通いでお(えい)言うて家のことをしてくれるんがおる。夕餉を作ったら帰るさかい、今日はもうおらへんがな」

 一通り紹介を終えると、松好斎は真好に視線を向けた。

「家ん中、案内して、それ終わったら先に寝間(ねま)ぁしたって」

「先生ぇ、面倒見役は私には……」

「それも修行や思い。教えるんは己が解っとらなできんさかいな」

 真好は部屋に戻る松好斎の背中を不服そうに見つめ、次いで治兵衛を見下ろした。

(かわや)は外や。それだけ分かっとりゃ、ええやろ。布団は今日は敷いたるからどこにあるか見とけ。明日からは自分で敷け。ええな?」

 真好は基本的には細かく教えない性格だった。

 一緒に生活して徐々に分かったことだが、子供が苦手なようで、それ故、治兵衛に対して言葉を尽くして説明することはなかったし、手取り足取り指導することもなかった。

 その上、潔癖なところがあり、筆が少しでも汚れていると黙って治兵衛に筆を差し出し、やり直させることもしばしばだった。

 松好斎から面倒見役を指示され、嫌がっていた割に真好は治兵衛のことを細かく見ており、絵の指導だけでなく、普段の生活でもそれとなく補佐したり手伝ったりなどしてくれた。


 当時、弟子入りする年齢は十代が圧倒的に多く、八歳での弟子入りもあるにはあったが珍しかった。

 それ故、兄弟子と()えど、治兵衛にとっては三人共親子ほど歳が離れており、扱いも同じ弟子というより子供扱いだった。

 三人の弟子は歳も近く、寝食を共にしている期間も長いとあって、阿吽(あうん)の呼吸で通じ合う仲だった。

 それもあって、治兵衛にとって松好斎の家での生活はとても孤独だった。


 家を出た翌日、昼間に治兵衛はこっそり家の近くまで行ってみた。

 きっと自分を心配して探し回ったはずだ。

 追い出したりして悪かった、と父は泣いて駆け寄って来る。

 そう期待したのだが、店はいつも通りで、父も何事もなかったかのように普段通り働いていた。

 父だけじゃない。

 遠目でも分かる程、母も兄も笑って楽しそうにしていた。

 まるで初めからあの家に治兵衛はいなかったかのように見えた。

 本当に追い出されたのだ。

 いらない人間だったんだ。


 治兵衛は世界に一人取り残されたような気持ちで、気づけば松好斎の家の前に立っていた。


 帰る家はここしかない。

 けれど、松好斎は温厚な清兵衛とは対照的に何事においても厳しい人だった。

 その上、口数も少なく、多くを語らないため誤解されることもしばしばだった。

 真好は真面目で潔癖なところがあり、粗野で思ったことをすぐ口や態度に出す露好とは何かと衝突することが多かった。

 そんな彼らの間に入って調停役になるのはいつも雪好だった。

 雪好がいたお蔭で治兵衛も彼らの輪に迎え入れられ、徐々に孤独を感じなくなっていった。


 松好斎が父で、雪好は優しい兄で、真好は厳しい兄で、露好は怖い兄で。

 洗濯や食事の面倒を見てくれるお栄は母のような存在だった。

 その中で治兵衛は一番下の弟であり、彼らの息子であったが、治兵衛自身はそれをどこかで否定していた。

 まだ、本当の家族に未練があり、勘当されたとしても断ち切ることはできなかった。


「治兵衛」

 ある時、露好が井戸端で筆を洗っている治兵衛の所へ不機嫌そうな様子でやって来たことがあった。

「これも一緒に洗ってんか」

 差し出された筆を受け取ると、露好は懐から包み紙を取り出してそれも差し出した。

「これは?」

「雪好がお前にって。あいつがこないな(もん)、買える訳があらへんのに、自分が買ったって言い張るんやで? 誰に貰った思う? 秘密にするっちゅうことは……やっぱ女やろか?」

 包み紙の中身は有平糖(ありへいとう)だった。

 紅白の千代結びの形が綺麗で、一度食べてみたいと思っていた飴菓子だった。

 父にねだったことがあるが、少し高価な物なので買って貰えなかったのを思い出す。

「しかも俺らは一個ずつやで? お前は子供やからって三つや。しっかり味わって食えや」

 そう言ってじっと見つめられた治兵衛は、包みから一つ取って露好に差し出した。

「お。くれるんかいな? ほな、おおきに……」

 そう言って受け取ろうとした露好は伸ばしかけた手をピタリと止めた。

 ただならぬ気配にゆっくり振り返ると、その背後にいたのは仁王立ちする真好だった。


「子供の菓子を奪うやなんて大人げないことすなっ」

「これのどこが奪っとるんや? くれる()う親切心を素直に受け取っとるだけやないか。なあっ?」

 露好に同意を求めれられ、治兵衛はぎこちなく頷いた。

 その様子に「ほら、見てみぃ」と露好が勝ち誇ったようにニヤリと笑う。

「お前がそう仕向けとるだけやないか。それくらい分かるわ、阿呆(アホ)

「誰が阿呆や?」

 睨み合う二人の間で治兵衛が狼狽(うろた)えていると、縁側から雪好が「またなに喧嘩しとるんや?」と声を掛ける。

 温厚な雪好が鋭い視線で二人を見つめると、二人は途端に押し黙った。

「治兵衛。その菓子はお前の分やから、一人で食べ。皆にも配っとるんやから遠慮はいらへん。それに嫌なことは嫌て断ることも大事やで。相手が年上でもそれは関係あらへん。線引きはせなあかんで」


 そう言って微笑む雪好に治兵衛は憧れた。

 露好のように荒々しい訳ではないのに、真好のように道理を説いているのに、なぜか雪好の言葉はいつも柔らかで温かく響いた。


 けれど、雪好はその裏で一人苦悩していたことを治兵衛は知らずにいた。


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