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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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45.昔話 ③ 夕餉の時間

 治兵衛は拳を握り締めた。

 門扉を叩こうとしたが、その手が上がらない。


 何と切り出せば良いのか、何も考えていなかった。

 素直に『絵師になりたいから弟子にしてください』と言えば良い。

 単純な話だ。

 だが、松好斎の言葉が不意に蘇る。


「幾ら才があろうと、絵師は死ぬまで下手なまんまや。朝から晩まで毎日描き続けても、や。その覚悟がないと絵師は目指さへん方がええ」


 その覚悟が自分にあるだろうか。

 ただ、行く当てがないからここに来た。

 今、門前に立っている理由は短絡的すぎるものだった。

 でも、絵師になりたいと思って来たのは事実だ。


 絵を描くのが好きだ。

 上手くなりたいと思う。

 それを職にできるなら尚良い。

 心の底からそう思っている。

 なのに、この門を叩くのを躊躇っている。

 迷う理由など何一つない。


 ただ。

 この門を叩いてしまったら、もう二度とあの家には帰れない。

 引き返すことはできない。

 勘当されたとはいえ、もう一度父に頭を下げ、本気で謝って許しを乞えば、また一緒に暮らせるかもしれない。

 けど、それは絵師になることを諦めるだけでなく、二度と絵を描かずに生きることでもある。


 逡巡しているうちに日はどんどん傾いて、暮六つの鐘が鳴り始めた。

 治兵衛はただ拳を握り締めたまま、門の前に立ち尽くしていたが、鐘が鳴り終わって少しして、ギッと音を立てて門が開いた。


「なんや、うちに用か?」

 松好斎でも雪好でもない、墨の匂いを纏った見知らぬ男が出て来て不審そうに治兵衛に声を掛けた。

「あ、いえ……」

 反射的に否定する。

「ほならなんや? 親はどないした? 迷子か?」

 訝し気に顔を(しか)める男性に治兵衛は押し黙った。

「どないした、真好(しんこう)?」

 さらに男の背後から聞き覚えのある声がした。

「多分、迷子やねんけど、黙っとって……」

 真好と呼ばれた男が背後を振り返る。

 すると、現れたのは松好斎だった。

 治兵衛は目が合った瞬間、俯いて視線を逸らす。

 そんな治兵衛に松好斎は「とりあえず、中に()れ」と真好に言って、門の向こうへ戻って行った。


 真好に視線で中に入るよう促されたが、治兵衛の足は動かなかった。

 その様子に真好は治兵衛の背中を押して中へと押し込むようにして入れた。

 門の向こうは墨の匂いが漂い、そこに混じって夕餉の良い香りもした。

 途端に納まっていた腹の虫が鳴った。


「飯もまだやったんか。ちょうどええ。わしらも今から飯や」

 笑う真好に、治兵衛は恥ずかしさのあまり腹を抑えて俯いた。

「子供が遠慮せんかてええ」

 真好はそう笑いながら、治兵衛を家の中に入れた。


 居間には松好斎だけが座しており、膳は四つあった。

 残り三つはこの真好と前に会った雪好、そして松好斎の奥方の物だろうか。

「先生ぇ、連れて来ましたけど……迷子にしろ家出にしろ親が心配しはるのに……黙ってうちに入れてもええもんやろか?」

「うちに来たっちゅうことは、覚悟して来た。そう思うてええか?」

 真好の問いを無視して、松好斎は治兵衛を真っ直ぐに見据えて問い掛けた。


 真っ直ぐで威圧感のある視線に治兵衛は俯く。

 もう家には帰れない。

 そう悟った。

 ここまで追い出されたら行く当てどころか生きる術もなくなる。

 治兵衛は腹を括って顔を上げた。


「はい。覚悟して来ました」


 治兵衛も真っ直ぐに松好斎を見つめた。

 その視線を受け、松好斎は真意を探るようにしばらく黙していた。

「……ほなら飯にしよか。他の(もん)はどないした? 雪好はまだ戻らへんのか?」

 松好斎はそう言って真好を見やる。

露好(ろこう)はんはそろそろ切り上げて来ると思います。雪好はんは……さっき外見ましたけど、まだのようでした。もう一遍、探して来ましょか?」

「いや。ええ。雪好のをこの子に食べさし」

「ほなら雪好はんのは……?」

「時間までに戻らへんかったんが悪い。少しは待ったんや」

「せやけど……」

 真好は不満そうにしたが、松好斎と治兵衛を見比べ、軽く溜息を吐いてから治兵衛を膳の前に座らせた。


 そこに荒々しい足音が近づき、小柄な男が入って来た。

「はあ、腹減ったぁ」

 首に掛けた手拭いは墨で汚れていて、着物の裾や袖口も墨が染み込んでいた。

「ん? この子は?」

 男の目が治兵衛で留まる。

「今日からわしの弟子や。ここに住まわすよって、面倒見たってくれ」

 松好斎の言葉に二人は目を丸くした。

「こないな小っこいのを弟子にするんでっか?」

 後から来た男が驚いた声で問う。

「そう言った」

 松好斎は静かに肯定し、箸を手に取った。

「この子の親は知ってはるんですか? まさか親はおらへんとか……」

「親はおる。石屋橋の紙商や」

「それって雪好はんが時々行きはる……なんやったか、確か……山本屋のことでっか? そないなとこの子がなんで……」

「次男や。心配いらへん」

「次男やっても……おい、お前。今、いくつや?」

 急に問われて治兵衛はおずおずと「八つです」と答えた。

「まだ八つやて? 八つの子が何の絵を描くんや?」

「雪好は才があると()うとったで」

「あいつはなんでも褒めるよって。先生ぇはこの子の絵を見はったんで?」

「いや」

「見てへんのですか? 見てへんで弟子に取りはるんでっか?」

「もうええから。今は飯の時間や。座って飯食わへんのやったら、部屋から出て行ってくれへんか?」

 松好斎に言われて、男は憮然としながらも治兵衛の隣にどすん、と座した。


 黙って二人の様子を見ていた真好も松好斎の隣に座し、眉間に皺を寄せたまま箸と茶碗を手に取る。

「お前も食べなさい」

 松好斎が静かに促し、治兵衛は重い沈黙の中、箸を手に取った。


 ここでこれから毎日こうやって飯を食うのか。

 そう思うと、家での賑やかな食事が恋しくなった。


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