44.昔話 ② 勘当
絵が上手くなりたい。
そんな漠然とした想いは雪好との出会いで『絵師になりたい』に変わっていった。
松好斎の言葉は理解し難いものだったが、治兵衛にとってとても印象的な言葉として胸に残っていた。
どんな絵を描くのだろう。
そんな興味から治兵衛はこっそり店を脱け出して、絵草子屋へ向かった。
有名な絵草子屋は家から少し離れた場所に密集していたが、近くにも一軒だけ小さな店があるのを知っていた。
松好斎の家がどこにあるのか知らない。
けれど、それなりに名のある絵師なら小さな店にも置いてあるはずだ。
師匠にするならできるだけ上手い人に習いたい。
そう思って治兵衛は絵草子屋の店主に『松好斎』の絵を見せて欲しいと頼んだ。
すると店主はすぐに一枚の絵を差し出してくれた。
「今あるのはこの役者絵だけや」
その絵は雪好の絵に見た繊細で緻密な線の美しさは共通していたが、雪好の絵よりも胸に迫る何かがあった。
そして、素直に上手いと思った。
「買うんやったら二十文や。どないする?」
役者絵の相場は十六文。
二十文は少し高い。
だが、その値が付くということは、それだけ売れている証拠だ。
「松好斎って人気なん?」
「流光斎如圭と松好斎半兵衛。上方の浮世絵じゃこの二人はまず外せへんな。知らずに買いに来たんかいな」
呆れる店主を余所に治兵衛は食い入るように絵を見つめた。
「で、買うんか買わんのかいな?」
「銭忘れて来たさかい、また来るわ」
「なんやの、冷やかしかいな」
絵を返すと店主は顔を顰めた。
凄い絵師なんだ。
それを知った治兵衛は益々松好斎に師事したいと想いを募らせた。
季節は変わり、夏を迎えてもその熱は冷めなかった。
その頃になると清兵衛も治兵衛の姿に苦言を漏らすようになった。
すぐに飽きると思っていたことが飽きるどころか益々酷くなっていたからだ。
紙の切れ端に絵を描くのはまだ良い。
売り物の紙を盗んで隠れて絵を描いたり、客がツケに置いて行った肉筆画をこっそり持ち出して模写することもしょっちゅうだった。
姿が見えないことも増え、目に余る程、絵に傾倒していく様子に清兵衛もついにキレた。
「そないに絵が描きたいんやったら出て行けっ」
激怒した清兵衛は治兵衛を家の外へ摘まみ出し、家から閉め出した。
温厚な清兵衛の激怒した姿を初めて見た治兵衛は、その時初めて次男であっても絵師を目指すことは許されないことなのだと思った。
そんな法も決まりもなかったが、当時の治兵衛はそう信じた。
追い出された治兵衛はしばらく家の前で泣きじゃくっていたが、戸を叩いても何を叫んでも戸が開くどころか返事もない様子に諦めた。
涙を拭って、行く当てもなく歩き始めた。
勘当された。
もう家には帰れない。
これから一人でどうやって生きて行けばいい?
治兵衛の頭の中はそれだけだった。
人が多く行き交う通りで、孤独を感じた。
それは今までに感じたことのない絶望と痛みを伴っていた。
日が傾き始める時刻。
夏の暑い陽射しに汗が滲む。
冬でなくて良かった。
そう思った。
でも、いずれ冬が来る。
その前に今夜はどこで眠ればいいのか。
その前に腹が減った。
どこからか総菜の良い香りがする。
反射的に腹が鳴る。
金もない。
ああ、このまま死ぬんだ。
絵を描きたい。
そう願ったせいで。
父の意に反してそう願った、これはその罰なんだ。
治兵衛はそう考えた。
今思えば馬鹿げた考えだと分かるが、当時の治兵衛はそう信じた。
絵を諦める。
だから、家に帰らせてください。
そう願った。
が、その直後。
いや、違う。
そう考えた。
こうなったなら、絵師になってやろう。
そうだ、絵師なら住み込みで働ける。
多分、八歳の子供でも生きていける道はこれしかない。
今の自分には絵しかない。
そうだ、これは絵師になりたいと願った、その願いが天に通じたんだ。
そう考えた。
そう思ったら途端に気が少し楽になった。
そして、治兵衛はすぐに行動に移した。
絵草子屋に行き、松好斎半兵衛の家を訊いた。
あちこちお遣いに行っていたお蔭でこの辺りの地理は詳しかった。
だいたいの場所を店主に聞き、家の近くでまた人を捕まえて詳しい場所を聞いて、治兵衛はついに松好斎半兵衛の家の門前に辿り着いた。
そこは人気絵師の家としては想像よりも小さく、簡素に見えた。
それなのに治兵衛の目には堅牢で強固な城のように聳え立って映った。




