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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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43.昔話 ① 師との出会い

ここからしばらく治兵衛の過去回想編になります。

登場人物の大半が実在した人物になりますが、9割フィクションです。あしからず。

 寛政十二年。西暦一八〇〇年。大坂、春。


 当時八歳だった治兵衛は玄斎の家がある瓦町から徒歩二十分の位置にある石屋橋東詰の紙商の家で暮らしていた。

 屋号を山本屋と言い、父・清兵衛(せいべえ)、母・登世(とせ)、五つ上の兄・喜兵衛(きへえ)、そして三つ下の妹・志乃(しの)の五人家族だった。

 

 店には様々な職の者が客として訪れ、中でも治兵衛が興味を抱いたのは絵師だった。

 紙を大量に必要とする絵師の中には代金を払えずに代わりに肉筆画をツケとして置いて行く者もいた。

 その絵を幼い治兵衛はじっと見て、見様見真似で店の隅で描いていた。


「上手いなぁ」

 不意に掛けられた声に治兵衛が顔を上げると、にこやかに笑む男性がいた。

 画号を雪好(せっこう)といった。

「せやけど、まだまだやなぁ。墨は濃淡がある。筆は使い方、動かし方で線の太さと濃さが変わる。それを学んだら化けるかもしれへんなぁ」

 惜しいなぁ、と言って雪好は腕を組んだ。

「おっちゃん、絵師なん?」

 治兵衛が問うと「それ描いたん、わしや」と治兵衛が手本にしていた絵を指差した。

「えっ? ほんまにっ?」

 治兵衛が目を輝かせると、雪好は笑んで肯定した。

「歳は?」

「八つや」

「八つか……絵は好きか?」

「うん。こないな絵が描けるようになりたいんやけど……何枚描いたらなれるやろか?」

 治兵衛の真っ直ぐな視線を受け、雪好は目を細めて笑った。


「お待たせして、えろうすんまへん」

 そこに治兵衛の父、清兵衛が紙の束を手にやって来ると、雪好は神妙な顔つきになって清兵衛に向き合った。


「この子は絵の才があるさかい、うちの師に紹介させて貰えへんやろか」

「お客はん、こいつはええ加減な奴で飽きっぽいさかい。今はこうしてええ子して絵を描いとりますがね、じっとしていられへんで……」

「分かっとります。こないなええとこの坊ちゃんに失礼な申し出やって。ただ……この歳でこれだけ描けるんは……しかも誰にも師事しとらんでこれは勿体ない思うただけです」

 そう言って雪好は清兵衛から紙を受け取って帰って行った。

 雪好の言葉に治兵衛は自分の描いた絵と雪好の絵をじっと見比べていた。


 その日はなかなか寝付けなかった。

 物心ついた頃からずっと自分は将来何になるのだろう、と漠然と考えていた。

 紙商の家は兄が継ぐ。

 治兵衛も紙の種類を覚えさせられたり、紙を客に届けに行くなど簡単な手伝いをさせられているが、まだ幼いのもあって店に立つことはほとんどない。

 まだ五歳の妹、志乃の面倒を見るのが中心で、だがそれも使用人の女性の仕事の一つだ。

 しかし、兄は治兵衛よりも小さい頃から店に立っていたと聞く。

 今も父の隣で家業について学んでいる。

 次男である治兵衛は継ぐことはないが、分家して兄を支える道もある。

 もしくは同程度の家に婿養子に入ることもあるが、父、清兵衛は分家を考えているように、幼いながらも治兵衛は感じ取っていた。

 だから紙商として生きるのだと思っていたが、絵師として生きる道もあると思うと、心は絵師へと大きく傾いた。


 翌朝、治兵衛は朝食の席で絵師になりたい、と口にしてみた。

 すると、清兵衛は「どうせすぐ飽きよる癖に」と真面目に聞く耳も持ってくれなかった。

 雪好もそれからしばらくは店に来ることもなく、治兵衛は一人、雪好の絵を何枚も模写して過ごしていた。


 そんなある日。

 紙を客に届けに行った帰り道、治兵衛は道端で雪好を見かけて声を掛けた。

「お。こりゃ山本屋の……」

「なんや、知り合いか?」

 振り返った雪好の隣には雪好よりも年上の見知らぬ男性がいた。

「前に話した紙商の子です」

 雪好が隣の男性にそう説明すると、「この子が」と男性は治兵衛を見下ろした。

 その目は鋭く、幼い治兵衛には怖い人という印象が強かった。


「そういや、名前聞いてへんかったな。わしは雪が好きと書いて『せっこう』()(もん)や」

 今更ながらに自己紹介をし、破顔する雪好を治兵衛はじっと見上げた。

「……治兵衛や」

「治兵衛か。ええ名や。一人か?」

「うん。お遣いの帰りやねん」

「そうか。偉いなぁ。こちらはわしの師匠で、松好斎(しょうこうさい)先生や」

「おっちゃんより絵が上手いん?」

 師匠と聞いて、治兵衛はそう訊いた。

 今思えば大変失礼な質問ではあったが、相手が子供だった故か、松好斎は気に障った様子はなかった。

「絵は上手い下手やあらへん。見る者の心に何を残すかや。文字と一緒で何を伝えるか。それが大事や。せやから、何も伝わらん絵は上手いとは言われへん。ミミズが這ったような絵でも人を感動させられたら上手い絵や」

 松好斎は治兵衛の問いにそう答えた。

 治兵衛は絵は上手いか下手かが大事だと考えていたので、当時は松好斎の言葉は理解できなかった。

「それと絵師を目指すんやったらこれだけは言うておく。幾ら才があろうと、絵師は死ぬまで下手なまんまや。朝から晩まで毎日描き続けても、や。その覚悟がないと絵師は目指さへん方がええ」

 そう言って踵を返す松好斎を雪好が困惑した様子で一歩遅れて続いた。


 それが松好斎(しょうこうさい)半兵衛(はんべえ)との出会いだった。


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