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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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42.報告

 作業場から玄斎さんの家までは歩いて十五分程度。

 ゆっくり歩いても二十分と少し。

 玄関の前まで帰って来て、中に入るのを躊躇う。


 この戸を開けて治兵衛さんが倒れていたらどうしよう?

 大丈夫だったとしても逃げて来たなんて知ったら、絶対怒られる。

 物を届けるだけの、子供でもできるようなお遣いも上手くできなかった。

 また……失敗してしまった。


 戸に手を伸ばしかけて下ろす。

 下ろした瞬間、家の中で咳き込む声と何かが倒れる音がし、慌てて戸を開ける。


「治兵衛さんっ」

 声を掛けると、居間と治兵衛さんの部屋の襖が全開になっていた。

 居間には布団が敷いたままで、治兵衛さんは隣の自分の部屋で畳の上に板を置き、その上で紙を広げて絵を描いていた。

「おう、お帰り。迷わず辿り着けたか?」

 まだ顔が少し赤い。

 治りきってない様子なのに、笑顔を見せる治兵衛さんに胸が痛む。

「さっき大きな音がしましたけど……」

「ああ。そこの道具箱倒してしもてん。悪いんやが、そこの布団のけてくれへんか?」

「駄目ですよっ。まだ寝ていないと。風邪、治りませんよ?」

「そりゃ分かっとるんやが、少しでも仕上げとかな、締め切りに間に合わんさかいな。作業場はどないな様子やった?」

 治兵衛さんの問いに答えに詰まる。

 逃げて来たと正直に言うべきだと分かっているけど、どう伝えれば怒られずに済むか考えている自分がいた。

「……なんや、目が(あこ)うないか?」

 押し黙る私に治兵衛さんが目聡く訊いて来た。

「何があったんか、こっち来て話してくれんか?」

 治兵衛さんはそう言って筆を置き、私に近くに来るよう手招きした。


 こうなれば仕方ない。

 覚悟を決めて治兵衛さんに正直に全て話すことにした。


 作業場には迷わず行けたこと。

 着いたら四人しかいなくて、他の人は皆、治兵衛さん同様、風邪で来られない様子だったこと。

 だから、人手が足りなくて無理矢理助っ人にされたこと。

 でも、指示された模様が分からなくて、訊かずに勝手に描いて失敗したこと。

 失敗した責任を取ってさらに絵を描かされそうになって、泣いてしまったこと。

 泣いた挙句、啖呵を切って逃げ帰って来たこと。

 全てを話した。


 私がたどたどしく話している間、治兵衛さんは両腕を組んで、じっと最後まで何も言わず聞いてくれた。

 話し終えると、怒られると思ってた。

 でも。


「そりゃ、えらい目に()うたなぁ」

 そう言って治兵衛さんは笑った。

「春蝶もなぁ、根は良い奴なんやけど、一人でやらなあかんって焦っとったんやろなぁ。仕切る者の俺が倒れてしもたさかい、誰も頼れんで余計に苛ついとったんやろ。そこに運悪くウメが来たさかい、逃がしたらあかんってなったんやろな。俺が遣いを頼んだばっかりに虎の穴に放り込んだみたいになってしもて、悪かったな」

 怒られると思ってたのに逆に謝られてしまい、とても申し訳なくなった。

「私の方こそ……忙しいのに失敗して余計な手間を増やしてしまって……」

「それはあいつ等が悪いわ。自分の弟子でもない奴に急に頼んだ上に、ちゃんと説明もしてへんのやから。それにな、失敗や()うたのもわざとやと思うで?」

「わざと……ですか?」

「うん。それを盾にしてできるだけ描かせたろっちゅう魂胆やったと思うで。せやから、泣くほど気にせんでええ」

 治兵衛さんのその言葉でまた泣きそうになるのを俯いてグッと堪える。


「……こないなことがあった後でなんやけど。ウメ、絵を描くんは好きか?」

 不意に問われ、顔を上げた。

 治兵衛さんのとても真剣な表情に一瞬口籠る。


 だけど、ここに来てひったくり犯を捕まえるのに一役買ったこと、治兵衛さんを描いて褒められたこと、玄斎さんの絵を描いてお松さんがとても喜んでくれたことを思い出した。

 ずっと描いていなかったけど、手はちゃんと覚えていて、絵を描く楽しさも一緒に思い出した。

 漫画家になる夢は諦めたけど、絵を描くことはやっぱり諦められない。

 ずっと好きだった。

 そして、これからもずっと好きでいる。

 それだけは確信できる。

 例え何があってもそれは変わらないと。


「好きです」

 私ははっきり自信を持って答えた。

「正直に言うと、ここ何年も絵は描いてなかったんです。絵を描くことを仕事にしようと、ずっと頑張ってたんですけど、両親に反対されて……それで諦めて今は違う仕事をしてたんです。でもやっぱり、絵を描いてる時が楽しくて、幸せで……だから、絵をまた描きたいと思ってます。仕事でなくても、単なる趣味としてでも」

 そう答えると、治兵衛さんは「そうか」と笑顔で頷いた。

「実は俺もな、絵師になるのに親に勘当されてん」

 治兵衛さんはそう言って苦笑いを浮かべた。

「紙商の次男やってんけど、()っさい頃から紙売るより絵を描くんが好きやってん。店にはな絵師も仰山(ぎょうさん)出入りするさかい、偶々店の隅で絵を描いとるんを見た絵師がな、絵師にならへんかって声掛けてくれて……」

 そう言って、治兵衛さんはぽつりぽつりと昔話を始めた。


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