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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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41.涙

「とりあえず、さっきのこれと同じ絵を描いてんか? 役者の顔知れへんでも見本があったら描けるやろ?」

 春蝶さんはそう言って紙を台の上に置いた。

 助さんに先程の席に連れて行かれ、渋々座る。


「うちは絵師が三人おるさかい、今日中に下絵を十枚上げなあかんのや。わし一人で十枚は土台無理な話や。それやのにあんたがここまで描いた絵を駄目にしたんや。描き直すんは当然として、追加で二枚は描いて貰わな」

「駄目にしてしまったのは申し訳ないと思っていますし、描き直すのは当然だと思います。でも、それは私がここで働く絵師だった場合です。私はそもそも絵師じゃありませんし、浮世絵なんて描いたこともない素人です。なので、描けと言われても……」

「そないな嘘は通用せんでっ」

 穏やかに見えた春蝶さんが声を荒げた。

 突然の強い口調に思わずビクリと体が震える。

「あんたの絵は既に見とる。指示したんと(ちゃ)うが、この蜘蛛も見事や。これだけ描いといて絵師やないとは言わせへんでっ」

 そう言って春蝶さんはしゃがんで私と目線を合わせる。

「それに絵師やない(もん)が筆握って、絵を描くか? 描く前に描けへんっちゅうて筆を置くやろ? 筆握っといて絵師やないは……どういう了見や?」

 まるでヤクザのような目つきと口調に手が震えた。

 他の二人と助さんを見上げるも、皆一様に厳しい表情で黙している。


「御託はいらへん。時間が惜しいさかい、男らしゅう腹ぁ括って、さっさと描いてくれんか?」

 そう言って春蝶さんは台の上を叩いて、私をじっと見つめた。

 この状況。

 まるでヤクザに身に覚えのない借金を払えと脅されている気分になる。

 上司の怒鳴り声よりもずっと凄みがある。

 理不尽な要求だと分かっていても、抗う言葉が出て来ない。

 震えながらも右手は筆を掴む。


「ほな、これの通り、頼んだで」

 そう言って春蝶さんは私が失敗した絵を白紙の紙の隣に置いて立ち上がると、他の人達と一緒に部屋の奥へと去った。


 一瞬、泣きそうになった。

 口をキュッと噤んで、我慢した。

 やっと耐えた。

 ちゃんと訊けば良かった。

 訊いておけば失敗せずに済んだし、こんなことにならなかった。


 あ。

 確か玄斎さんに怒られた時も確認せずに勝手にやって怒られたんだった。


 あの時と同じだ。

 全然学習してない。

 あの時、ちゃんと確認しようって心に誓ったのに。

 春蝶さんが忙しそうだったから。

 話し込んでたから。

 訊かずに勝手に判断して、失敗して、怒られた。

 これは部活じゃなくて、お仕事なのに。


 治兵衛さん、大丈夫かな?

 どうしよう。

 私がこのまま帰れなくて、戻ったら治兵衛さんが倒れてたら。

 お水、やかんに汲んで枕元に置いておけば良かった。

 まだ治りきってなくて、ふらふらしてる状態で井戸から水なんて汲めない。

 脱水症状になって……死んじゃってたらどうしよう?


 悪い考えがどんどん大きくなって、我慢していた涙がついに零れてしまった。

 左手ですぐに拭ったけど、目が熱くなって壊れてしまったみたいで、どんどん溢れて止まらなくなる。

 どうしよう。

 まだ何も描けてないのに、これじゃ描けない。

 泣き止まないといけないのに、涙を止めようとすればするほど溢れて来て、焦りと不安と恐怖で気持ちもぐちゃぐちゃになる。


「な、なんやっ。もしかして……泣いてはるん?」

 私の異変に気付いた助さんが近づいて来て、ドン引きしたように私を見た。

 助さんの声に春蝶さんが「どないしたんや?」と立ち上がって声を掛けた。

「なんや分からへんけど、泣いてはるんやけど……」

 助さんが困った声で答える。

「はあっ? なんで泣くんや? 忙しゅうて泣きたいんはこっちやがな」

 春蝶さんが呆れたような苛立ったような声で言いながら、ゆっくり近づいて来る。

「泣くほど描くのが嫌なんか? それにしても泣く奴がどこにおんねん。女でもこんくらいのことで泣かへんで」

 私の傍らまで来て立ち止まると、仁王立ちになって見下ろした。

「こっちは忙しい()うてるやろっ」

 その恫喝に私は顔を上げて、春蝶さんを見上げた。

「こっちも絵師やないって、さっきから何度も言ったでしょっ」

 筆を置いて立ち上がる。

 私の勢いに春蝶さんは一瞬驚いた表情になるが、「泣き止んだなら描けっ」と怒鳴る。

「今、家には病気の治兵衛さんが一人でいるんですっ。熱があってふらふらな状態の彼を看病できるのは私だけなんです。だから早く帰らないといけないのに、絵を描いてる余裕なんてありませんっ。人の命と絵だったら、私は命を取りますっ」

 腹の底に溜めて我慢していた言葉を一気に吐き出す。

 言い終えて、手が震えているのに気づく。

 でも、もう後には引けない。

 震える足で踵を返し、一歩踏み出す。

 その勢いで走り出し、その場から逃げ出すように出て行った。

 背後で春蝶さんらが何か言っていたけど、心臓の音で聞こえず、真っ白な頭では理解できなかった。


 通りをしばらく走って、息が切れて立ち止まる。

 呼吸を整えながら振り返る。

 誰も追って来てはいなかった。

 片手を胸に当て、大きく深呼吸する。

 息を整えながら、さっきの自分の行動を振り返る。


 言ってやった。


 ただそれだけだった。

 少しだけスッキリして、かなり落ち込んで、すごく後悔した。


 治兵衛さんが仕切る職場なのに。

 失敗した上に責任も取らずに泣いて、醜態を晒したのに訳の分からない啖呵を切って逃げ出してしまった。


 どうしよう。

 家に帰る足取りがとても重くなった。


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