40.助っ人
作業場には朝早いせいか、まだ三人しかいなかった。
「確かウメやったな? あんたも絵師やろ?」
必死な形相で春蝶さんに問われ、「違いますっ」と否定したけれど。
「春好はんを描いとったやんか。あんな凄い絵を描けるのに絵師やあらへんって。冗談キツイで」
言いながら肩を組まれ、物凄い力で誘導され、紙の前に座らされた。
「あのっ、私はただこれを治兵衛さんに頼まれて届けに来ただけで……」
「治兵衛? ああ、春好はんのことかいな。ま、これはおおきに言うて受け取っとくわ。ほなら、あんたの用は済んださかい、今から暇やんな? ほれ、これを持って」
流れるように春蝶さんは私から木箱を受け取り、替わりに私の右手に筆を握らせた。
「歌右衛門の下絵、描いてくれへんか? 構図は任せるさかい」
ん?
まさか私に手伝わせる気?
「歌右衛門って……?」
「中村歌右衛門や。まさか知らんのかいな?」
私が頷くと春蝶さんは凄く驚いた表情になった。
「ほな、嵐吉三郎は?」
首を横に振ると、「ほんなら誰やったら描けるんや?」と呆れた表情で問われた。
「歌舞伎役者……ですか?」
名前から察して問うと「せやっ」と大きく頷かれた。
現代の歌舞伎役者もあまり知らないのだから、この時代の歌舞伎役者なんて一人も知る訳がない。
「歌舞伎はあまり……詳しくなくて……」
正直に答えると、心底驚いた顔で「絵師やのにぃ?」と問われた。
「ですから、私は絵師じゃありません」
「またまたぁ。そないな見え透いた冗談、通じへんで? あ、分かった。手伝わされるんが嫌で知らぬ振りをしてるんやな?」
「違いますって。私は本当に絵師じゃ……」
「あくまでもそう言い張るんやったら、もうええわっ。せやったら着物の柄でも描いてや。こっちは蜘蛛、こっちは市松やっ」
「クモって……?」
「空のやないで、虫のやで。そないなボケはいらんさかい。ほな、頼んだでっ」
そう言って春蝶さんは私の背をバシッと叩いて、作業場の隅へ駆けて行った。
反論しようと思ったけど、既に他の人と話し込んでいる。
どうしよう?
早く家に帰って治兵衛さんの看病しないといけないのに。
筆を置いて、このまま帰ってしまおう。
そう思ったけれど。
「あ、この間の人やおまへんかっ。手伝いに来てくれはったんですかっ?」
不意に声を掛けられ、振り返ると助さんがいた。
「皆、バタバタ倒れはって、こんだけしか今おれへんで……誰か手伝える人探しに行って来たんやけど、どっこも同じような状況で誰も捕まえられへんで、どないしよっ、締め切り間に合わへんっ、食うていけへんって戻って来たところやってん。せやけどこれで助かったわぁ。これで食い繋げるわぁ。ほんまおおきにぃ」
私が何か言う前に一気にそう言って頭を何度も下げられた。
か、帰るとは言いだし難くなってしまった。
よし、この一枚だけ描いたら帰ろう。
少し手伝えば帰りやすくなるはず。
「少しだけですけど、この後用事があるんで……」
「少しでも全然助かりますぅ。今、猫の手でも借りたい思うてましてん」
そう言って助さんは再度頭を下げて、作業場の奥へと駆けて行った。
状況が少し理解できた。
風邪が流行ってるせいで、この作業場も人手不足になってるんだ。
朝だから人が少ないのではなくて、風邪で休んでいる人がいるからこれだけしか出勤していないんだ。
そんな時に私がのこのこお遣いに来てしまったせいで、手伝いに来たと勘違いされてしまった訳だ。
前回、この作業場に来た時、治兵衛さんの絵を描いたのを皆が見てる。
それにあの時確か治兵衛さんが私のことを「俺の弟子」って紹介した気がする。
それもあって絵師だと思われて、即戦力だと誤解されてるんだ。
浮世絵なんて描いたことないのに。
元美術部だから筆で絵は描けるけれど、西洋画と浮世絵じゃ全然違う。
改めて作業場を見渡す。
浮世絵の下絵と思われる紙が台に並べられ、部屋の奥では一心不乱に木を削っている人が一人、少し離れた場所では絵の具を並べて作業している人が一人いた。
春蝶さんは木を削っている人に何か話しかけていて、助さんは奥の作業台で何か作業をしている。
本当に忙しそう。
勝手にこっそり帰るのも人として良くない気がする。
一枚だけなら、着物の模様を描くだけなら大丈夫だよね?
治兵衛さんの体調が気掛かりだけど、少しなら。
早く終わらせて帰ろう。
よし、と気合を入れて筆を握る手に力を込める。
蜘蛛と市松って言ってた。
市松は確か格子模様だよね?
蜘蛛って蜘蛛の絵を描いたらいいのかな?
蜘蛛の巣だったら蜘蛛の巣って言うはずだし。
蜘蛛ってどんなだっけ?
蜘蛛の姿を思い出しながら絵を描く。
筆で描くのは高校生以来、本当に久し振りだ。
鉛筆で下書きしてから筆で描いていたけど、ここではこの筆が下絵になる。
消しゴムで消せる鉛筆と違って消せない墨。
それに鉛筆の芯のように硬くない柔らかい筆で描く線は歪みやすい。
力の強弱で線の太さも変わる。
鉛筆画とは違う緊張感がある。
「でき……た?」
市松模様はただの格子模様なのでサクッと描けた。
蜘蛛の方は着物の皺に合わせて蜘蛛の形を歪ませるのに少し苦労したけれど。
割と上手く描けた、気がする。
ちょっと漫画っぽい蜘蛛になったような気もするけど。
これで帰っても問題ない、はず。
「あのぉ、それじゃ私はこれで……」
筆を置いて立ち上がり、階段の近くまで行ってから春蝶さんの背に向かって声を掛けた。
振り返った春蝶さんは「助ッ」と声を掛け、私が描いた紙へと駆け寄る。
呼ばれた助さんは部屋の奥にいたのに飛んで来て、その迫力に固まる私の腕をガシッと掴んだ。
「なんやっ、これはっ!」
絵を手に取った春蝶さんが大声を上げる。
その声に他の二人も手を止めて近寄って来た。
「わしは蜘蛛絞り言うたのにほんまもんの蜘蛛描いとる……」
あ、蜘蛛じゃなくてそういう模様の名前だったの?
どんな模様か見当もつかないけど、大失敗したというのは分かった。
「それに……なんや、この歪み……ほんまに着物を着とるようや」
春蝶さんの言葉に他の二人も腕を組んで「初めて見る技法やな」とか「着物だけ本物みたいやな」と唸っている。
皺は既に描いてあったけど?
私は柄を描いただけなのに、なぜそんな反応になるの?
春蝶さんは他の二人を振り返り、視線で何かを語り合い、それから三人が頷いた。
何、怖いっ。
「これは失敗やから描き直しやな。このクソ忙しい時に……責任取ってもらうで」
春蝶さんの言葉に助さんの手に力が入る。
責任って……何をさせられるの?




