39.お遣い
目を覚ますと、部屋には薄く光が射し込んでいて、朝が来たのだと悟った。
いつの間にか寝てしまっていたようだ。
朝の肌寒さに思わず両手で体を抱きしめる。
「治兵衛さん……」
様子を伺うと、息も落ち着いていて穏やかな寝息を立てていた。
額の手拭いを取って手を当てる。
まだ少し熱い気もするけど、下がっている。
ふと枕元の椀が空になっているのに気づく。
夜中に飲み干したのだろう。
お蔭で薬が効いたのかもしれない。
玄斎さんはまだお寺で患者の治療をしているのか、まだ帰って来ていない。
少しは眠れただろうか。
治兵衛さんの看病だけで精一杯だったのに、玄斎さんはたくさんの患者を相手にこの一夜を過ごしたのかと思うと、医者ってどの時代も大変だな、と感心する。
それと、私を看病してくれた母のことを思い出した。
両親にもこのままずっと会えないんだろうか。
いつか現代に戻れる日は来るんだろうか。
戻れなかったら……ここで一生を終えるんだろうか。
自然と俯いてしまう自分に気づいて、無理矢理顔を上げる。
分からないことをぐだぐだ考えるのは止めよう。
それより、今できることを考えよう。
まずは顔を洗って目を覚まそう。
落ち込んでいる場合じゃない。
治兵衛さんも完全に回復した訳じゃないし、看病しなくて良くなった訳じゃない。
夜が明けただけだ。
よし、と気合を入れて立ち上がる。
裏口を出て太陽の光を浴びる。
明るい空に気持ちも明るくなる。
井戸水の冷たさに完全に目が覚める。
あと、トイレの臭いで現実を思い知る。
着物はまだ綺麗に着れないけれど、なんとか男装して身支度を整える。
治兵衛さんが指差した箪笥の引き出しを開けると、木箱があった。
取り出して中を見ると、筆などの道具が一式入っていた。
これを前に行った作業場に届ければいいのね。
治兵衛さんを振り返る。
これで良いか確かめたいけど、起こすのが躊躇われる。
そこに「おはようさぁん」と元気な声がした。
襖の戸を開け、土間に降りる。
そういえば玄関の戸に鍵、というかただのつっかえ棒だけど、それをしていたのを見て慌てて開ける。
「あら、お梅ちゃん。目の下にクマできとるけど……夕べはまさか先生と……?」
そこにいたのはお松さんだった。
目ざとくクマを見つけてあらぬ誤解をして来たので、慌てて「違いますっ」と否定する。
治兵衛さんが風邪を引いたこと、玄斎さんはお寺で夜通し患者を診ていることを話すと、「そりゃ大変やったねぇ」と安心した顔になる。
「それであの……少しの間、治兵衛さんをお願いできますか? 治兵衛さんの代わりにこれから作業場に届け物をしないといけなくて……」
「そうしてあげたいんやけど、うちも店があるさかい。それに今日はあたしが店番せなあかんよって……うちの旦那もちょっと風邪気味でねぇ。これ、いつもの煮物の差し入れや。お菊ちゃんも風邪やって言うてたし、ほんま流行っとるんやなぁ」
「そうなんですか……」
「昼からやったら少し抜けられると思うさかい、一度様子見に来てあげるわ。あんた、ご飯も作れへんのやろ? ちょっと遅うなるかもしれへんけど、なんか見繕って来るわ。それより、お梅ちゃん。昨日はお風呂、どうやった? 入ったんやろ?」
「あ、ええ。お蔭で久し振りに入れました。ありがとうございます」
「礼はええねん。今度その話も詳しく聞かせてな」
そう言ってお松さんは帰りかけて、すぐ戻って来た。
そして何も言わずにいきなり私の帯を解いて、手際良く着物を直し、帯をサッと結んで去って行った。
一瞬の出来事で驚きのあまり固まっていたけれど、ハッと我に返って急いでその背にありがとうございますっと叫んだ。
そして、家の中に戻ると、治兵衛さんが上半身を起こしていた。
「今の、お松か?」
問われて「はい」と答える。
「体はどうですか? お松さんから煮物頂いたんですけど、一口でも食べれそうです?」
「んー、まだあんまり欲しゅうないな……それより水貰えんか?」
「あ、そうですよね。喉乾きますよねっ」
風邪の時は水分補給が大事だった。
温めたスポーツドリンクを母が用意してくれていたのを思い出す。
一番大事で、今の私にもできることがまだあった。
急いで井戸水を汲んで湯呑に入れて渡す。
ついでに引き出しから出した木箱を見せ、作業場に持って行く物はこれで合っているか確認もした。
「おう、それや。作業場の場所、分かるか?」
「前に治兵衛さんの絵を描いた場所ですよね? 多分、分かると思います」
「迷ったら春好のおる版元って訊いたら教えてくれるはずや」
「分かりました。これ届けたらすぐ戻りますね」
「おう。頼んだで。気ぃつけてな」
「はいっ。治兵衛さんも無理しないで寝ててくださいね」
と言って家を出たのだけど。
作業場にも真っ直ぐ辿り着けたのだけど。
「ええとこに来たっ。ちょっと手伝うてんかっ」
前に会ったひったくりに遭った人、確か春蝶さんだっけ?
その人が木箱を受け取る前に、焦った表情で私の腕をがっしりと掴んだ。
そして、作業場にいた全員が必死な視線で何かを訴えかけていた。
な、何事ッ?




