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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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38.看病

 静かな家の中、私は自分を奮い立たせた。


 灯りがあるとはいえ、薄暗い中、玄斎さんに言われた通りに看病する。

 桶の冷たい水に手拭いを浸し、絞って治兵衛さんの額に置く。

 荒い息遣いはとても苦しそうで、体はとても熱かった。

 額に置いた手拭いはすぐに温くなる。

 熱が下がるまで何度も取り替える必要がありそうだ。

 それを予見してか、玄斎さんが行燈を裏口の側に置いてくれていた。

 その灯りのお蔭で井戸と居間との往復に困らなかった。


 煎じ薬の入ったやかんとお椀も枕元に持って来てみた。

 お椀に注いだ薬は独特の匂いと色に思わず顔を(しか)めてしまった。

 しかし、熱に浮かされて意識のない治兵衛さんに飲ませるのは難しそうだった。


 薬を飲ませられない今、私にできることは額の手拭いを常に冷たくすること。

 ただそれだけだった。

 誰も頼れる人がいない中、薄暗い部屋で治兵衛さんを看病するのはとても不安になる。

 体温計がないので熱がどれくらい高いのか分からない。

 額や頬に触れると、とても熱い。

 早く薬を飲ませたいのに。


 仕方なく桶の水を取り替えようと立ち上がった瞬間、フッと火が消えてしまった。

 途端に闇が部屋を支配する。

 火ってどうやって点けるの?

 マッチのようなものは近くになかった。

 火打ち石とか? この時代どうやって火を起こすの?

 スマホは?

 あ。灯りがあると思ってまた引き出しの奥に戻しちゃった。


 居間の隣は治兵衛さんの部屋で、その向こうは台所がある。

 台所と向かいの作業場の間、そこに裏口の戸があり、その側に行燈がある。

 襖を次々と開け、行燈の灯りを取り入れる。

 行燈の灯りはどれくらい保つんだろう?

 電気のように点けたら消すまで消えない訳じゃない。

 それをすっかり失念していた。


 灯りがあるうちに急いでできることはやっておこう。

 桶の水を替えて、それに他に何かできること。

 いや、他にしないといけないことって何だろう?


 実は風邪の看病なんてしたことない。

 でも看病された経験はある。

 幼い頃のことはあまり覚えていないけど、確か高校生の時、インフルエンザになって母が看病してくれた。

 治兵衛さんがもしインフルエンザだったら……こんな薬じゃ治らない気がする。

 風邪が流行ってるみたいだけど、本当に単なる風邪なのかな?


 そういえば、母は額だけでなく、首も冷やしてくれた。

 喉が痛い時は加湿器をつけてくれて、はちみつ入りのミルクと飴をくれて……

 加湿器は無理だけど、濡れたものを干せば加湿になるんじゃ……?


 何か私にできること。

 未来から来たのに、風邪の原因も対策も知ってるのに。

 手拭いを額に置くだけじゃ、ダメだ。

 玄斎さんに言われたことだけじゃ、ダメだ。


 夜目にも慣れて来て、行燈の僅かな灯りを頼りに箪笥や押し入れから布を探して、鴨居に濡らした布を掛けられるだけ掛けた。

 けれど、掛け終わった時、行燈の灯りが小さくなっているのに気づいた。

 もう行燈も消えてしまう。

 最後にもう一回、桶の水を替えておこう。

 そう思ったけれど、行燈の灯りが揺れ、徐々に小さくなり、無情にも消えてしまった。


 再び家の中が真っ暗になる。

 桶を手に裏口の手前で立ち尽くす。


 火の点け方、聞いておけば良かった。

 スマホ、出しておけば良かった。

 火が消えてから思い至る。

 もっと早く気づけてたはずなのに。

 いつも直面してから後悔する。

 前もって、とか。

 先回りして、とか。

 できたはずなのに、いつも後からああすれば良かった、と思う。


 でも、過ぎ去ったことは戻らない。

 戸は開けたままにしておいた。

 何度も井戸と往復しなければいけなかったから。

 裏庭に出て桶の水を捨てる。

 井戸から水を汲んで桶に移す。


 ふと空を見上げると、プラネタリウムのようにたくさんの星が見えた。

 外の方が明るい。

 星がたくさん見えることへの感動はあまりなくて、ただ、夜が明けるまであとどれくらいだろう、と思った。

 夜がとても長く感じた。


 今、何時だろう?

 治兵衛さんの熱は何度だろう?


 いつまでも朝が来ないような不安に襲われる。

 その不安を無理矢理振り払うように桶を抱えて家の中に戻る。

 濡らして絞った手拭いを額だけでなく、首筋にも当てる。

 確か脇の下も冷やすといいんだっけ?

 そんなことを思い出して、脇の下にも布を挟む。

 そうすると、しばらくして治兵衛さんの荒かった息遣いが少し和らいだ気がした。

 これならそろそろ薬も飲めるんじゃ……?


「治兵衛さん」

 声を掛けてみる。

 でも、目を覚ます気配はない。

 どうしよう。

 早く薬を飲ませないといけないのに。

 今、何時だろう?

 玄斎さんが出て行って、どれくらい時間が経った?

「治兵衛さん……」

 再度呼び掛ける。


 薬が飲めないなら、他に何ができる?

 私にできること。

 考えなきゃ。


 焦っていると、不意に「ウメ……?」と掠れた声がした。

 見ると、治兵衛さんの顔がこちらを向いていた。

「治兵衛さんっ」

 呼ぶと、起き上がろうとするので手を貸す。

 まだ体が熱い。

「ここは……(うち)かいな?」

「はいっ、そうです。薬、飲めそうですか?」

「薬……?」

「玄斎さんが煎じてくれたものがあるんですけど……」

「ああ……あの不味いヤツやな」

 心底嫌そうな顔をしつつも、飲むと言ってくれたので手探りでお椀を渡す。

 けれど、一口飲んで「もうええ」と言われてしまった。

「でも……飲まないと……」

「分かっとる。後でまた飲むよって。それより……一つ頼まれてくれんか?」

 治兵衛さんはしんどそうに息をして、上目遣いに私を見た。

「私にできることならなんでもっ」

「ほな、うちの作業場に届けて欲しい(もん)があんねんけど……ええか?」

「はいっ。何を届けたらいいですか?」

「筆と作業道具や。まとめといたんがそこの棚に入っとる」

 治兵衛さんが弱々しく指差した棚に近寄り、「ここですか?」と確認する。

「今すぐやない。日が昇って明るうなってからでええ。朝のうちに行ってくれればええさかい」

「朝のうちって……皆さん、何時頃出社……じゃなくて、ええっと作業場には……」

「誰かしら常におるさかい、いつ行っても構へん。それより、今何時か知らへんけど、ウメも寝な」

「でも……」

「薬飲んだし、ウメのお蔭で少し楽になったさかい、ずっと側におらへんでももう大丈夫や」

 治兵衛さんはそう言って再び横になった。

 その額に再度手拭いを載せる。


 治兵衛さんと会話ができたせいか、少し安心した。

 裏口の戸を閉めて、襖も閉めて、家の中は真っ暗になったけれど、不思議と治兵衛さんの寝顔がよく見えた。


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