第99話 安堵のビールと、楽しい夕食
ライブ配信を終えたコウさんとナナちゃんは、「今日は本当に疲れたね……」と深く息を吐き出し、夕食はホテル内のレストランで済ませることになった。
その席へ移動する前、私は少し迷った末に二人へ一つの提案をしてみた。
それは、大原さんもこの夕食に誘ってみてはどうか、というものだった。
理由は単純だった。配信前に別れた際の大原さんの様子が、どうしても頭から離れなかったのだ。
(大原さん……きっと今頃、夕飯も食べずに部屋で一人で落ち込んでいるんじゃないかしら)
ふと、ほんの六週間ほど前の自分自身の姿が重なる。
理由は違えど、あまりのショックから眠れず、食べられず、ただただ涙が止まらなかったあの頃の自分。きっと今の彼も自分を激しく責め立て、『高校生の従弟が軽はずみな行動に出たのは、元はと言えば自分が画像を送ったせいだ』と苦しんでいるに違いない。親戚や家族に対しても、強い罪悪感を抱えているであろうことは容易に想像できた。
異国の地で、一人きりで自分を責め続けているのではないか。そんな姿を想像してしまった。
彼のしたことは短慮だったかもしれない。けれど、大好きな憧れの人を見かけて写真を撮り、それを同じファンの従弟に見せてあげたくて送った――ファンなら、つい浮かれてしまう気持ちも、少しは理解できた。学校を休んでしまっているという高校生の従弟さんのことも気にかかる。
……けれど、私自身が深く傷ついた経験があるからこそ、他人の痛みや苦しみに過剰に感情移入しすぎてしまっているのかもしれない。
私は昔から、人の痛みに引っ張られやすい。婚約破棄を経験してからは、それが以前にも増して強くなった気がする。
けれど、まだ傷の途中にいる人は、相手を助けたいという気持ちがあっても、他人の痛みに引っ張られて自分まで苦しくなってしまうことがあるのだ。今の私は、まさにそれなのかもしれなかった。
だからこそ、ほんの少しでも彼の力になりたかったのだが――。
言うべきではないのかもしれない。そう思いながらも、どうしても彼の憔悴した顔が頭から離れず、私は恐る恐る口を開いた。
「あの……もしお二人が嫌でなければ、なんですけど……。大原さんも、夕食にお誘いしてみませんか?」
二人は少し意外そうな表情で私を見た。
「もちろん、したことが許されるとは思っていません。でも、あまりにも憔悴している様子が気になってしまって……。あのまま一人で過ごすのは、少し心配になってしまったんです」
少し間を置いて、ナナちゃんが静かに首を横へ振った。
「ごめんなさい……私は、ちょっと気が重いです。今日は配信が無事に終わってようやくホッとしたところなので、三人で気楽に楽しくご飯が食べたいです」
その言葉には、偽りのない本音が込められていた。
彼女の言い分はもっともだった。被害者である彼女が気まずい思いをしてまで、加害者側に配慮する必要はない。私は、自分の提案が軽率だったのだと反省した。
コウさんも少し難しい顔をしたあと、静かに口を開いた。
「気持ちは分かる。でも、今日は違うかな。……今晩は、俺たち三人だけで気楽に食事を楽しみたい」
「……そうですよね。出しゃばったことを言ってすみませんでした」
二人の意見に納得し、私たちは案内されたレストランのテーブルについた。
メニューを開き、マトンカレー、豆のダルカレー、そして定番のチキンカレーの三種類を注文する。
私とナナちゃんは甘くて濃厚なフレッシュマンゴーラッシーを、コウさんはペリエを頼み、グラスを合わせた。
飲み物が運ばれてきたのと同時に、焼きたてのナンと『Aloo Gobi アルゴビ』と呼ばれるジャガイモとカリフラワーのスパイス炒めがテーブルに置かれた。『Aloo アル』はジャガイモ、『Gobi ゴビ』はカリフラワーを意味し、インドの代表的なベジタリアン料理であるサブジの一つで、ニンニク、ショウガ、クミン、ターメリックなどが使われ、スパイスの風味で淡白な野菜の味わいが引き立っている。
「友達に教えてもらったんだけど、そのまま食べても美味しいけど、ナンで包んで、少し潰しながら食べても美味いんだ」
コウさんが、『アルゴビ』をちぎったナンにのせて食べている。
「北インドのカレーって、バターや生クリーム、ギーをたっぷり使ったコクのある濃厚なソースが特徴なんですって。こうして食べ比べると、ムンバイで食べていたカレーとの違いがよく分かりますね」
さっきまでの緊張が嘘のように、ナナちゃんが弾んだ声をあげてナンを頬張る。
「本当ね。 すごく濃厚で美味しいわね」
スパイシーで深いコクのあるカレーを口に運ぶうちに、張り詰めていた空気が少しずつ解けていくのが分かった。
「二人とも、今日はアルコールは飲まないの?」
私たちがラッシーを飲み終えた頃、コウさんが笑って言った。
「わあ、いいですね! すみれさんも飲みませんか?」
ナナちゃんから嬉しそうに誘われ、私も笑顔で頷いた。
『Kingfisher』の瓶のラベルには、鮮やかな青いカワセミが翼を広げた姿で描かれていた。
「今日は本当にお疲れ様。お互い、今夜はゆっくりぐっすり眠れそうだね。……乾杯!」
「はい。 無事に終わってホッとしました! 乾杯!」
「乾杯」
私たちはグラスを掲げ、静かに祝杯を挙げた。
「キングフィッシャーって、カワセミって意味なんだ」
「このビール、苦味が少なくてすごく飲みやすいですね。アルコール度数は……五パーセントみたいです」
「ああ、なんとなくフルーティーな甘い香りもするだろ? インドの定番ビールなんだよ」
「本当ですね、すっきりしていて美味しい。スパイスの効いたインド料理にぴったり合いますね」
話している間にも、熱々のカレーと香ばしく焼き上げられた『Chicken Tikka チキン・ティッカ』がテーブルへと並べられていく。
「すみれさん、私たち何気に今まで『ナン』ってあんまり食べてませんでしたよね?」
「ええ、そう言われてみればそうかもね。割と『Chapati チャパティ』とか『Roti ロティ』、『Paratha パラタ』を食べることが多かったかしら」
「へえ、そうだったの? 一般的なレストランだと割とナンが多いと思うけどな」
コウさんが少し不思議そうに首をひねる。
「えっ、そうなんですか? でも、あの大判のクレープみたいな『Dosa ドーサ』は?」
「ああ、ドーサはお米と豆の生地を発酵させて、鉄板でパリッと薄く焼くやつね。あれは主に南インドの代表的な料理なんだよ。ナンは小麦粉をタンドール窯で焼いた北インドの主食だけど、インド現地では家庭というよりレストランで食べる特別なものなんだ」
「へえ、そうなんだ……」
コウさんの分かりやすい解説に頷きながら、私たちは焼きたてのナンをちぎり、濃厚なカレーをたっぷりつけて頬張った。
昨日の夕方からショックと不安でほとんど何も喉を通っていなかったナナちゃんが、今は本当に美味しそうにパクパクとご飯を食べている。
(良かった……本当に無事に終わって)
その元気な姿を見ているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。昨日まで重く胸にのしかかっていた不安が、ようやく少しだけ溶けていく気がした。
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