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【片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜】  作者: 恋せよ恋
北インド編 心強い三人旅と、波乱の予感

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第94話 戸惑いの街歩きと、思わぬ声

 その夜、SNSの炎上対応に追われるコウさんとナナちゃんのために、ホテルのルームサービスで手軽に食べられる食事を手配して部屋へ届けた。

 二人へ食事を渡してねぎらったあと、私は一人でホテル内のレストランへ向かい、広い会場のビュッフェで静かに夕飯を食べた。


 正直なところ、コウさんからあの真っ直ぐな告白を受けてしまっては、今は顔を合わせるのが少し気まずかった。こうして一人で静かに食事をとる時間に、どこかほっとしている自分がいることにも気づいていた。


 一人になると、どうしてもコウさんの言葉と、自分自身の重い感情が頭の中を渦巻き始める。


(コウさんなら、私を大切にしてくれるかもしれない)

(私だって……また誰かに必要とされる価値があるのかもしれない)


 そんな感情が芽生えているのは紛れもない事実だった。



 けれど、それがすぐに「恋」や「深い愛情」と言えるのかというと、どうしても首を縦には振れなかった。



 九年間、ずっと愛し続けていた健一からの裏切り。人生最大の契約であったはずの『結婚』の直前で、すべてを呆気なく壊された。


 あの痛烈な出来事は、『男を見る目がなかったのではないか』『もう誰からの愛情も信用できないのではないか』という、根深い不信感を私の中に植え付けつづけている。


 婚約破棄という事態は、強烈な拒絶となって私を打ちのめした。


 九年間も愛されていたと思っていたのに。

 人生をともに歩む相手として選ばれたと思っていたのに。

 結局、最後の最後で私は選ばれなかったのだ、と。


 そんな傷口を抱えてボロボロだった心に、別の男性から「好きだ」「あなたと一緒にいたい」と言われたのだから、それが救いに感じられないはずがなかった。



 『私は、まだ誰かに求められるんだ』という安らぎ。それは確かに胸を温かくしてくれるけれど、今の私には、その救済感と本当の恋愛感情の境界線が判別できずにいた。



 日本を飛び出してから六週間。たったそれだけの期間で、九年間の思い出や痛みを整理しきれるはずがない。


 表面上は『もう大丈夫』『全部終わった過去のこと』と自分に言い聞かせていても、ふとした瞬間に心の中で同じ問いがリフレインする。


(健一はどうしてあの時、私を裏切ったの?)

(私たちが過ごした九年間は、一体何だったの?)

(あの一緒に描いた未来は、全部嘘だったの……?)



 今、コウさんの胸に飛び込んだとしたら、それは彼を愛しているからではなく、ただ『愛されている安心感』に縋りたいだけなんじゃないか。


 傷ついた自分を守るための避難場所として、コウさんの温もりに逃げ込もうとしているだけなのではないか。


(そんなの……コウさんに対して、あまりにも失礼だわ)


 まっすぐに想いを伝えてくれた彼を、元婚約者を忘れるための「安全な避難所」にしてはいけない。



 食事を終えて部屋に戻る。プレス対応とライブ配信の準備に追われているコウさんを思いながらも、答えの出ない問いを抱えたまま、私は落ち着かない空気の中で早めにベッドへ潜り込んだ。


◇


 翌朝、日本時間の午前九時、アグラ時間の午前五時三十分、コウさんとナナちゃんそれぞれの事務所から公式プレスリリースが同時に発表された。


=================


【ご報告】一部SNS投稿について


 いつも応援してくださっている皆さまへ。


 昨日、一部SNSにて「熱愛発覚」との内容で、私、コウと旅系YouTuberのナナさんが写った画像が掲載されました。

 掲載された写真は、インド・アグラの世界遺産「タージ・マハル」にて撮影されたものです。

 写真は、観光中に段差を踏み外し転倒しそうになったナナさんを、私が咄嗟に支えた瞬間を撮影したものであり、恋人同士のような接触ではありません。


 今回の件につきまして、皆さまに直接お伝えしたいことがあり、本日日本時間19時より、私と、ナナさん、それぞれのチャンネルにて同時ライブ配信を行います。


 応援してくださっている皆さま、関係者の皆さまにご心配をおかけしておりますことを心からお詫び申し上げます。


 本日19時からのYouTubeチャンネル内のライブ配信にて、今回の画像について、そして私たち自身の言葉でお話しさせていただきます。


 今後とも旅を通じて、皆さまに楽しんでいただける発信を続けてまいります。


 株式会社BLUE MAP(ブルーマップ)

 コウ


 ==================


 ナナちゃんも概ね同様のコメントを、同時刻に事務所HP、公式InstagramとXへ投稿した。


 リリースが出されると同時に、SNS上は瞬く間に騒然となった。


「やっぱり誤報だった!」

「咄嗟に支えてあげるコウ、イケメンすぎる」

「付き合ってて欲しかったのに!」


 といった安堵や称賛の声が広がる一方で、夕方のライブ配信で二人の口から何が語られるのか、ネット上の関心は一気に高まっていく。



 二人はその日、日本時間十九時からのライブ配信に向けて、お互いの説明内容に一切の齟齬が出ないよう、配信ポイントのすり合わせに余念がなかった。


 プロとして真剣に向き合う二人の姿を見て、私はこの場にずっといても邪魔になるだけかもしれない、と感じていた。


 それに、昨日のコウさんからの告白の余韻と、自分の心の迷いに押し潰されそうで、どこか静かな場所で考えたかった。



 私は二人に一言声をかけ、午前中に一人でアグラの街へと出ることにした。もちろん、配信が始まる午後三時半までにはホテルへ戻るつもりだ。


 どこか有名な史跡を観光したいわけではない。

 ただ、異国の熱気と見知らぬ人混みの中に身を置くことで、これからの自分の生き方を、じっくりと見つめ直したかったのだ。



 ホテルを出た私は、アグラの市街地に広がるマーケットへと足を向けた。

 色鮮やかなサリー生地やスパイスの香りが漂う露店、行き交う大勢の人々の熱気の中を、ただあてもなく歩いていく。周囲の喧騒の中に身を置いていると、自分自身の抱える迷いや悩みがほんの少しだけ小さくなっていくような気がした。


 お昼時になり、ふらりと路地裏で見かけたローカルなレストランに入ることにした。注文したのは『ベジタリアンターリー』。肉を使わない野菜中心のカレーやおかずが何種類も大皿に並ぶ定食だ。



 ホテルで配信準備に忙しくしているであろうナナちゃんへ、スマホからメッセージを送っておく。


『一人でランチを食べてから戻るね』


 送信して間もなく、すぐにナナちゃんから返信が届いた。


『すみれさん、楽しんできてくださいね! 今回の件で巻き込んじゃって本当にすみません(>_<)』


 自分のことで頭がいっぱいはずなのに、こうして私のことまで気遣ってくれる。本当に優しくて、良い子だなと胸が温かくなった。



 シンガポールを目指して成田を飛び立った六週間前は、まともに食事も喉を通らず、夜も眠れないほど心も体もボロボロだった。


 それなのに今の私は、インドのアグラで行き当たりばったりに見つけたレストランに入り、一人で美味しくカレーを食べている。


 人の心や環境の変化というのは、本当に不思議なものだ。自分が思っている以上に、自分はタフなのではないかしらと思えてくる。



 運ばれてきたベジタリアンターリーの、スパイスの効いたカレーをひと口すくって口に運ぶ。


 婚約破棄の傷が完全に癒えたわけでも、これからの未来に対する不安が消え去ったわけでもない。コウさんからの思わぬ告白に、どう応えればいいのかという迷いも胸の中に残ったままだ。


 けれど、あの成田空港で絶望の中にいた頃の自分とは、確かに違う場所に立っている。


 私はこうして自分の足で歩き、見知らぬ異国の街で、ちゃんとごはんを食べて笑うことができるのだから。


 美味しい食事を終えてレストランを出て、再び街歩きを再開したときだった。


 不意に後ろから、聞き馴染みのある日本語で呼び止められた。


「あのっ! すいません!」


 異国で突如聞こえた懐かしい日本語に驚いて振り返ると、そこには私を見つけて安堵したような、それでいて焦りを隠せない表情の、二十五歳前後と思われる、よく日焼けした男性が立っていた。


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