第93話 抗議文と、ヘタレな彼のまっすぐな告白
ホテルに戻った私たちは、コウさんの部屋に集まり、それぞれの事務所と連携を取りながら状況の確認に追われていた。
事務所側が迅速に確認を進めていく。
本当にその場所、タージ・マハルにいたのか、投稿された画像の加工の有無、撮影日時と状況、投稿者のアカウント情報、そして現在の拡散状況――。
「画像を見る限り、完全にあのタージ・マハルでナナちゃんがよろめいた瞬間だね。斜め後ろから意図的に切り取られている」
コウさんがノートブックの画面を見つめながら、冷静に分析する。
今回の件で深刻なのは、単なる事実無根の熱愛デマだけではない。投稿時間や画像の内容から、私たちが現在アグラ周辺にいる可能性を特定され、YouTube動画が公開される前に移動ルートや滞在場所を推測されてしまうことだ。
それは、プライバシーの侵害であるだけでなく、私たちの安全にも関わる重大な問題だった。
「コウさん、事務所からはどう言われました?」
ナナちゃんが、自身の事務所スタッフとウェブ通話をつなげながら尋ねる。
「うちの事務所としては、強い姿勢で対応する方針だよ。まずは投稿削除要求、弁護士からの警告、投稿者の特定までかな。相手の反応次第では、損害賠償請求、場合によっては警察への刑事相談まで視野に入れる」
「私の事務所も同じ意見です。匿名アカウントだからって逃げ切れると思ったら大間違いですよね。SNS運営会社にログは残るんだから、発信者情報開示請求で特定できますし」
「うん。それに……うちの実家に任せてくれれば確実だしね。弁護士事務所をやっていてこういうネット案件も専門で扱ってるからさ。肖像権やプライバシー侵害、必要なら名誉毀損で対応する」
淡々と恐ろしい追及手段を口にするコウさんに、私は密かにゴクリと息をのんだ。日本の法律上、有名人であってもプライベートの私生活には明確な保護がある。悪質な晒しや危険を及ぼす投稿には、容赦なく法的措置が取られるのだ。
「で、僕たちの発表するコメントだけどさ」
コウさんが少し困ったように眉を下げた。
「事実無根の情報でコメント欄が荒れるのは本当に迷惑だし、プライベートを切り売りする人気商売をしているつもりもない。何より、ナナちゃんのファンの子たちに嘘で期待させたり混乱させたりするのが申し訳ないから、きっぱり削除申請と否定を出したい」
「私も全く同じ気持ちです。コメント欄に『おめでとう!』なんて祝福の声が届いていて……本当のことじゃないのに期待させちゃうのが申し訳なくて複雑で。それに、動画公開前に現在地がバレるのは困ります。毅然と削除申請してほしいです」
二人の意見は完全に一致していた。事務所もまた、本人の安全とイメージ管理を第一に考えて動いてくれている。
「よし。じゃあ対応の流れとしては、まずお互いの事務所から公式のプレスリリースを出す。その後、それぞれのYouTubeメンバーシップ会員に向けて、ライブ配信で直接説明する。ナナちゃん、これで大丈夫かな?」
「はい、わかりました! 私もその流れでライブ配信で説明します。……何か配信での注意点はありますか?」
「『なぜ一緒にいたのか』『いつから一緒にいるのか』『他に誰か同伴者がいるのか』。この三点を、お互い同じ事実と視点で説明することだね。変な食い違いが出ないように」
そう言って、コウさんがふと、隣に座っていた私の方へ視線を向けた。
まっすぐに見つめられ、私は思わず背筋を伸ばす。
「すみれさん……あの、俺と付き合っているということにしてくれませんか?」
「えっ……!?」
突然すぎる言葉に、私は意味を理解できず固まった。付き合っていることにする? それは、偽りの恋人になるということなのだろうか。
突然の言葉に、私が目を瞬かせると、コウさんは慌てたように顔の前で手を振る。
「あ、いや……違うんです。その……本当なら、こんな形で伝えたくなかったなあ……」
苦しそうに視線を落とす。
「もっと落ち着いた場所で、ちゃんと自分の気持ちとして伝えたかった。でも……今、すみれさんをこの騒動から守る方法を考えたら、それしか浮かばなかったんです」
「……」
「『俺には好きな女性がいて、今回の旅にもその女性が同行している』ということなら、熱愛の噂も自然に収まると思って……。まあ、嘘をつくことになるので嫌ですよね」
そこで、コウさんは小さく呟いた。
「……俺にとっては、嘘じゃないんですけど」
最後の言葉だけ、急に小さくなる。
その瞬間、となりにいたナナちゃんが「はぁ!?」と立ち上がった。
「ちょっと! コウさん、どんだけヘタレなんですか!」
「えっ、ヘタレ……?」
困惑するコウさんに、ナナちゃんはずいっと顔を近づけた。
「……コウさん」
「はい?」
そして、すみれには聞こえないように声を落とす。
「それ、告白じゃなくて逃げですよ」
「え?」
「すみれさんを守るためとか、格好つけた理由を並べていますけど……本当は自分が傷つくのが怖いだけじゃないですか」
「……」
コウさんが言葉を失う。
「好きなら、ちゃんと自分の言葉で伝えてください」
ナナちゃんは真剣な目で彼を見つめたまま、そこからは、すみれにも聞こえる声で続けた。
「それに……どんな理由があったとしても、すみれさんをこんな騒動に巻き込むなんて私は反対です。ましてや、どさくさに紛れて変な嘘をつくなんて……本当にしっかりしてください!」
「あ、いや……ナナちゃん。でも、なあ」
「言い訳は禁止です!」
ナナちゃんはぴしゃりと言い切る。
「私は事務所と最終調整の電話があるので、席を外しますからね」
そして、コネクティングルームの扉へ向かいながら振り返った。
「ちゃんと『して』くださいね! いいですね!?」
鼻息荒く言い残すと、ナナちゃんはバタンと勢いよくドアを閉め、自分の部屋へと戻っていった。
部屋に残されたのは、私とコウさんの二人だけ。
急に訪れた静寂の中で、気まずそうな、けれどどこか意を決したような顔をした彼が、ゆっくりとこちらに向き直った。
「……すみません。ナナちゃんに怒られちゃいました」
コウさんは苦笑しながら頭をかき、それから真剣な目つきで私を見つめた。
「実は、さっきの……嘘じゃないんです。すみれさん」
「え……?」
「『好きな女性が同行している』っていうのは、本当のことなんです。……俺、ずっとすみれさんのことが好きでした」
ドクン、と胸が大きく跳ね上がった。
「覚えていてくれるのかな。俺、高三の頃にすみれさんに助けられたことがあるんです。通学時間の駅のホームのベンチで体調を崩して動けない俺に、あなたが声をかけてくれて……」
「高三……ですか?」
「はい。あの時見せてくれた優しい笑顔が、ずっと忘れられなかったんです。それからも、何度か偶然に見かけることがあって、でも、声はかけられなくて……。今回、旅を重ねて、色んな景色を一緒に見て、あなたの優しさや芯の強さを知るたびに、どんどん惹かれていきました」
コウさんは、静かに、けれど熱を孕んだ瞳で私の目をじっと見つめ直す。
「こんな騒動の渦中で言うべきことじゃないのかもしれない。……いや、本当は言うつもりもありませんでした」
彼は一度、苦しそうに視線を伏せた。
「この旅が終わってから、ちゃんと落ち着いた場所で……自分の気持ちとして伝えるつもりだった」
いつもは颯爽としている彼が、珍しく俯き、小さく息を吐いた。
「でも……もう、自分に嘘はつけない」
そして、まっすぐに私を見つめる。
「俺と……付き合ってほしい、すみれさん」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……え?」
間の抜けた声が、自分の口から漏れる。
今、彼は何と言ったのだろう。熱愛の噂を収めるための、ただの作戦だと思っていたけれど違った。彼の瞳には、誤魔化しも迷いもなかった。
「……待ってください」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「コウさん……今のって……」
確認しなければ、信じられなかった。
「噂を消すための……嘘じゃないんですか?」
すると彼は、少しだけ寂しそうに笑った。
「違うよ」
それは、迷いのない返事だった。その一言だけで、私の胸の奥が大きく揺れる。
「俺はずっと……すみれさんに伝えたかった」
「どうして……私なんですか?」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
あの日の記憶を思い返す。けれど、助けた相手の顔すら、もうはっきりとは思い出せない。
「……私にとっては本当になにげない出来事だったんです」
けれど――。
「でも、俺にとっては違いました」
コウさんの静かな声が、胸に響いた。
タージ・マハルで聞いた、愛する女性のために永遠に残る場所を築いた皇帝の物語が、ふいに脳裏をよぎる。夕闇が迫るアグラのホテルの部屋で、私はまっすぐな彼の告白を、震えるほどの実感とともに受け止めていた。
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