第91話 大理石の回廊と、スマートな神対応
ナナちゃんに続いてシャワーを浴び、着替えと洗濯を済ませて窓から夕暮れのタージ・マハルを眺める。
夕方六時、今日の夕飯を相談しようとコネクティングルームのドアをノックした。それぞれの部屋に入る際、隣室のコウさんから『俺からドアを開けることはないから、何かあったらノックして』と言われていたのだ。
「開けるよ」と顔を出したコウさんは、爽やかな薄青の麻シャツにショートパンツ姿。ヘアスタイルも整っていて、ムスクの良い匂いまでしている。出会って数日、ダラけた姿を一度も見ていない。本当に規格外な人だ。
相談の結果、夕飯は徒歩圏内のイタリアンに決定。カレー以外のものが食べたいという三人共通の意見だった。
観光客の行き交う通りを十分ほど歩き、イタリアンレストラン『カーサ・ミーア』に到着。英語併記のメニューを開く。
「どうする? シェアするか、それぞれオーダーするか……」
「そうですねえ……別々だと色々食べるのは無理ですよね。よければシェアしませんか?」
「そうね。ピザもパスタも気になるから、スープは別でサラダとメインをシェアしましょうか」
「うん、そうしよう」
スープ、グリル野菜サラダ、Mサイズパスタ二種、ピザ二枚、サングリアのピッチャーを注文。久々のイタリアンは感動的な美味しさだった。
食事中、明日の予定を話し合う。
チケットはオンライン予約が必須。撮影機材は最小限、GoProは大丈夫だけど、自撮り棒は禁止。食べ物や国旗は持ち込み禁止、大きなリュックも不可で靴カバー着用など、厳重なルールをコウさんが解説してくれた。
「すごく厳しいんですね。さすが世界遺産って感じですか?」
「白い大理石を傷つけないよう、気を配っているんだろうね」
帰り道は散歩気分で良い腹ごなしになった。夜は各自のんびり過ごして、私は早めに就寝した。
◇
翌朝。朝食後、いつものパンジャビドレスに着替えて九時にタージ・マハルへ出発した。
建物の周囲五百メートルはガソリン車禁止のため、電気シャトルバスに乗り換える。
シャトルを降りると、セキュリティ前の大蛇の列と熱気が目に飛び込んできた。噂通りのすごい混雑だ。
「これは……入るまでに結構かかりそうですね」
ナナちゃんが並びながらGoProで撮影する。
事前にネットでタージ・マハルについて調べてはいたけれど、コウさんが行列の待ち時間を使って、分かりやすく旅の雑学として話してくれた。
「タージ・マハルって、お寺や宮殿だと思われがちだけど、実は巨大な『お墓』なんだよ」
「お墓、ですか?」
「そう。アグラ城で話したムガル帝国の皇帝シャー・ジャハーンが、若くして亡くなった最愛の妃ムムターズ・マハルのために建てた廟なんだ。悲しみに暮れた皇帝は、髪が一夜にして真っ白になったなんて伝説もあるくらいでね」
コウさんの深みのある声に、私とナナちゃんは思わず聞き入ってしまう。
「世界中から最高級の白大理石や宝石を集めて、20年以上かけて造らせたらしいよ。建造費用が高すぎて、国の財政が傾いたのが原因で、結局息子にアグラ城へ幽閉されちゃうんだけどね」
「そんなに……! 愛が深すぎるというか、スケールが凄まじいですね」
「はは、確かに究極の愛の形かもしれないね。それだけ想われていた妃は幸せ者だったのかな。……まあ、彼も今は最愛の妃の隣で眠っているんだ。幸せなんじゃないかな。幽閉はされたけど、終わりよければ全てよし、じゃない?」
そう言って優しく微笑むコウさんの横顔を見つめながら、私は遠い昔の皇帝の一途な愛と、目の前で静かに語る彼の知的な魅力に、じんわりと胸を打たれていた。
厳重なセキュリティチェックを抜け、ついに門をくぐると、目の前には広大な庭園と水路、そしてその奥に鎮座する世界遺産の『タージ・マハル』が姿を現した。
「うわあぁぁ……っ! すごい! 本当に真っ白で……あ、あれ?」
カメラを構えて駆け寄ったナナちゃんが、ふと首を傾げた。
「どうしたの、ナナちゃん?」
「いえ、写真や教科書だと、もっと透き通るような青白い白のイメージだったんですけど……なんだか、ちょっと黄色っぽく見えませんか?」
時計を見ると、時刻は午前十時半を過ぎたところだ。
上空から降り注ぐ日差しを受けて、白大理石の外壁はほんのり黄色みがかって見えた。
「あはは、確かに少し黄ばんで見えるね」
コウさんが隣で柔らかく笑いながら、サングラスを少しずらして見上げる。
「タージ・マハルは、太陽の光の角度や時間帯によってガラッと表情を変えるんだよ。早朝の朝焼けだとピンク色っぽく染まるし、夕暮れ時はオレンジ色、満月の夜は銀色に輝くらしい。今の時間は一番日差しが強いから、こういう色合いに見えるんだろうね」
「へぇー! 時間によって全然違うんですね! それはそれで趣がありますけど、朝焼けも見てみたかったなぁ」
「また次の機会のお楽しみだね」
私たちは正面の水路に沿って歩き、白大理石でできた基壇の上へと足を踏み入れた。
外壁にそっと手を伸ばしてみる。ひんやりとした滑らかな大理石の質感と、表面に施された繊細な彫刻がダイレクトに手に伝わってきて、思わず息をのんだ。
「すごい……外側の壁は直接触れるのね。本当に大理石なんだわ」
「そうなんだよ。外側の基壇や回廊は自由に触って質感を確かめられる。ただ、この先の内部の霊廟に入ったら、壁や装飾品には絶対に触っちゃダメだから気をつけてね。保護のために禁止されているんだ」
「はーい、気をつけます! それにしても、どこから見ても完璧な左右対称ですね。建物だけじゃなくて、庭園も水路も全部ピタッと揃ってて気持ちいいくらいです!」
ナナちゃんが感心したようにぐるりと周囲を見回す。
「ふふ、よく気づいたね、ナナちゃん。実はこの完璧な左右対称の中で、たった一つだけ『左右非対称』になっている隠し要素があるんだよ」
「えっ、本当ですか!? どこ? どこですか?」
コウさんの言葉に、私とナナちゃんは同時に身を乗り出した。
「内部にある皇帝夫妻の棺の配置さ。妃の棺が中央に置かれていて、後から亡くなった皇帝の棺がその隣に少し大きく並べられているんだ。あんなに完璧な対称性にこだわった建造物なのに、最後の最後で『愛する妻の隣に眠る』というロマンを取って非対称にしたんだよ」
「……わぁ、それ、すごくロマンチックですね。でも、惜しい気もしますね。ふふふ」
私が感嘆の声を漏らすと、コウさんは「ね、そう思うでしょ」と優しく目を細めた。
そのまま撮影に夢中になって後ずさりしていたナナちゃんが、段差に足を取られてグラリと体勢を崩した。
あっ、と声を上げる間もなく、コウさんが素早く手を伸ばし、彼女を抱き留めるようにしっかりと支えた。
「キャッ。びっくりした! ありがとうございます、コウさん」
「いや。でも撮影に気を取られると危ないから気をつけてね。大理石で転んだら痛そうだよ」
「はい、すみません……!」
ほっと胸を撫で下ろしながら周囲を見渡すと、日本語の会話がちらほらと聞こえてくるのに気づいた。アジア系のカップルや若いグループの姿も目立ち、さすがは世界に名だたる有名観光地だと思わされる。
その時、一組のアジア系カップルがこちらに向かって歩いてきて、思い切ったように声をかけてきた。
「あの、YouTuberのコウさんですか……? 私たち、コウさんのYouTubeチャンネルのファンなんです! 登録して、いつも楽しみに見てます! 良かったら一緒に写真を撮ってもらえませんか?」
女性が頬を赤らめながら尋ねると、隣の男性も嬉しそうにコクコクと頷いている。
「もちろん、喜んで」
コウさんが爽やかに応じると、私は自然な動作で「撮りましょうか?」と笑顔で女性からスマートフォンを受け取った。
「あ、ありがとうございます!」と恐縮するカップルを背景のタージ・マハルとともに画角に収め、幾つかシャッターを切る。
コウさんのスマートな神対応と慣れた雰囲気に、旅先で声をかけられるのはよくあることなのだろうなと思いながら、画面越しに並ぶ彼らの写真を確認した。
カップルはとても嬉しそうにお礼を言い、去り際に私とナナちゃんにも丁寧に会釈をしてくれた。途中、ナナちゃんの顔を見て一瞬だけ不思議そうな表情を浮かべたけれど、特に何も聞かずにそのまま立ち去っていった。
「嬉しそうでしたね。よくあるんですか? 声をかけられること」
私が尋ねると、コウさんは頭に手を当てながら苦笑した。
「いや、こういう有名な観光地では時々あるけど、ほとんどないよ。ナナちゃんもそうじゃない?」
「はい。私も日本人が集中する場所は避けるようにしてます。みんなすぐにSNSに投稿しちゃうんで、動画の予告がネタバレしちゃうんですよね」
「ネタバレかぁ、確かに大変だね」
ナナちゃんのプロらしい言葉にクスクスと笑い合いながら、私たちは再び歩き出した。照りつける太陽の下、白大理石の回廊を歩くコウさんの背中を見つめる。
皇帝の究極の愛に思いを馳せながら、魅力的な二人と一緒にこの景色を見られている奇跡に、胸の奥が温かいときめきで満たされていくのを感じていた。
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