第90話 頼れる背中と、ベッドダイブ
私たちは重いバックパックを背負ったまま、検索結果では徒歩十分と表示されたスマホの経路案内を片手に、アグラフォート駅からアグラ城の入り口へと向かった。
観光客用の入口であるアマール・シン門を見上げると、赤砂岩で築かれたあまりにも巨大な城壁が視界を覆い尽くし、その圧倒的なスケール感に思わず息をのむ。
「わあ! なんかRPGの舞台に迷い込んだみたいですね! まあ、観光客は多いですけど」
ナナちゃんが嬉しそうに感嘆の声を上げた。
「アグラ城、ガイドツアーもあるけど、どうする?」
窓口で三人分のチケットを購入するコウさんが、振り向いて尋ねてくれた。
「うーん、別にそこまで詳しく知らなくてもいいかな。ネットにもたくさん情報は出てますし」
「そうね。ガイドさんと一緒だと見たいポイントも違ってくるから、いなくても大丈夫かもしれないわね」
「そうだね。じゃあ、自分たちで気楽に歩こうか」
私たちは、ユネスコ世界遺産にも登録されている巨大な城塞の中を、気ままに散策し始めた。
背中のバックパックがじわじわと肩に食い込んでくるけれど、段差や階段を通るたびに、コウさんが「気をつけて」「重かったら持つよ」と自然に気遣って手を差し伸べてくれる。その不意の優しさに触れるたび、胸の奥が少しだけ熱くなった。
城内を巡る中で、コウさんがさらりとこの城の歴史を教えてくれた。この時になって、コウさんがアグラ城を観光するのは実に三度目だと聞かされて驚いた。
アグラ城に最後に暮らしたムガル帝国第五代皇帝シャー・ジャハーンは、亡き愛妃のためにあの有名なタージ・マハルを建設させた人物だそうだ。だが、その後実の息子によってこのアグラ城に幽閉され、晩年は城内の部屋から遠くに見えるタージ・マハルを眺めながら生涯を閉じたとされている。
「ここが、その八角形の塔――ムサンマン・ブルジュだよ」
コウさんに促されて宮殿のテラスへ立ち、遠くを見やる。
うっすらと靄のかかった空の向こうに、真っ白で幻想的なタージ・マハルがぽつんと美しく浮かび上がっていた。
バックパックから『くまのスミレ』を取り出し、遠くに見えるタージマハルと並べて写真を撮る。夕日に染まるタージマハルが人気のようだが、今日は少しぼんやり霞んで見える。
愛する人を想い続けながら、幽閉された二度と出られないアグラ城からそれを見つめ続けた皇帝の気持ちを想像すると、どこか切ない気持ちが込み上げてくる。
『……汚部屋で、汚ったない兄貴』
さっき慎二君から届いたLINEの言葉が、不意に脳裏をよぎった。誰よりも身だしなみに厳しく、いつも素敵だった健一の姿と、その彼の落差。そして、遠いジャカルタで彼がどう過ごしているのか。
だけど、今、目の前には、優しく微笑みながら私と同じ景色を見つめているコウさんがいる。
「すみれさん、大丈夫? 疲れちゃった?」
「あ……いいえ! 素敵だなと思って……」
「えっ!? あッ……ああ、そうだね。明日はあそこに行こうね」
一瞬驚いたように目を丸くしてから、優しく目元を緩めるコウさんに、私は慌てて笑顔を返した。
たっぷり一時間半ほどアグラ城を満喫した頃には、さすがに足腰に疲労が溜まっていた。城の外に出ると、コウさんが手際よくスマートフォンを操作して、配車アプリのUberで車を手配してくれた。
夕方の賑やかなアグラの街並みを車窓から眺めながら、十五分ほど車に揺られる。
今晩泊まる『ビュー・アグラホテル』に到着し、チェックインを済ませて部屋へと入った。今回はコネクティングルームを予約していた。七階の部屋からは遠くにタージ・マハルが見える最高のロケーションだ。
「わあ! あれ、タージ・マハルですよね! 滞在先のお部屋から世界遺産が見れるなんてすごいですね!……小さいですけど」
窓際に駆け寄っていたナナちゃんが悪戯っぽい笑顔でこちらを振り向く。
「本当ね。すごい贅沢な気分だわね」
私もナナちゃんの隣に並んで夕陽に霞むタージ・マハルを眺めた。
「さすがに荷物を背負っての観光は疲れたわね」
私が肩を揉みながらバックパックの重さをこぼすと、ナナちゃんも大きく頷いた。
「はい。勢いで直接観光に向かいましたけど、やっぱりきつかったですね。私も肩がバキバキです」
私は、ふかふかのベッドの足元に横になった。汗と埃に塗れているのでまずはシャワーを浴びるべきなのだろうけれど、暑さの中をバックパックを背負っての観光はさすがに疲れて動けなかった。
エアコンの心地よい冷風が、火照った肌を優しく冷やしてくれる。アグラ城を歩き回った脚の筋肉がじんと痺れるように痛むけれど、心地よい達成感に満たされていた。
「すみれさんはお疲れのようなので、少し休んでいてください。先にシャワーを浴びてきますね」
ナナちゃんがそう言ってバスルームへ向かった。さすがに若い子は体力があるなと思いながら、しばらく横になった。
『くまのスミレ』をベッドの枕元にちょこんと座らせ、サイドテーブルに置いたスマートフォンを手に取る。画面には、まだ返信していない慎二君からInstagramに届いたDMが開かれたままになっていた。
整えられた髪に、パリッとしたシャツ。いつでも完璧に身だしなみを整えていたあの頃の健一の姿を思い浮かべようとしても、なんだか遠い昔のことのように霞んでしまう。
弟の慎二君が思わず同情してしまうほどにボロボロになって、ジャカルタへ赴任したという元婚約者の彼。
胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚があったけれど、私は静かに息を吐き出し、画面に文字を打ち込んだ。
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『わかりました。仲の良い兄弟だから、心配だった気持ちはわかります。でも、私と健一さんは、もうお別れしたので、今後は連絡を取りたくありません。そこはわかって欲しいです。では、慎二君も夏バテしないように気をつけてお過ごしください』
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一文字一文字確かめるように読み返し、送信ボタンをタップした。
画面上で反映されたことを確認してアプリを閉じる。
うん、これでよし。
もう終わったことなんだから、いちいち過去のことに振り回されるのはごめんだ。
スマートフォンをサイドテーブルに戻し、私は仰向けになって天井を見上げた。寂しさがゼロになったわけじゃない。だけど、不思議と心は軽かった。
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