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【片道切符で意国を旅歩く 】〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜  作者: 恋せよ恋
シンガポール編 かつての卒業旅行の思い出の地

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第9話 屋台の熱気と、ジュリア

 シンガポールの夜は、昼間の湿り気を帯びた熱気がそのまま煮詰められたような重さがある。

 ホテルの狭いポッドで数時間、微睡んだ私は、空腹というよりは、身体が発する「燃料切れ」のサインに突き動かされるようにして外へ出た。


 向かったのは、地元の人々や観光客で賑わう「Hawker centre ホーカーセンター」と呼ばれる巨大な屋外屋台街だ。天井で巨大なファンが唸りを上げて回っているが、立ち並ぶ店から吹き出す調理の熱風と、人々の熱気がそれを容易に打ち消している。


 スパイスの刺激的な香り、肉を焼く香ばしい煙、そして多言語が入り混じる喧騒。

 日本での、あの静かなマンションのキッチン。健一の帰りを待ちながら、一人でおかずを見つめていた夜とは、あまりにかけ離れた世界だった。


「……安いところで済ませなきゃ」


 私は、長い列ができている『シンガポール名物チキンライス』の店を選んだ。いろんなサイトやnoteでお勧めされる『Maxwellフードセンター』の『Ah Tai Hainanese Chicken Rice』。

 一皿七ドルほど。パタンナーとして働いていた頃のランチ代に比べれば驚くほど安価だが、今の私にはその数ドルの重みが身に染みる。プラスチックの皿に無造作に盛られた鶏肉と、鶏出汁で炊かれたライス。


 空いている席を探すが、どこも家族連れやグループで埋まっている。ようやく見つけたのは、柱の影にある小さな円卓の端だった。

 私は、隣に座っている女性に軽く会釈をして、プラスチックのスプーンを手に取った。

 一口、チキンを口に運ぶ。……やはり、味覚は半分眠ったままだ。

 

 本来なら、しっとりと茹で上げられた鶏の旨味や、生姜とニンニクのソースが五感を刺激するはずなのに。今の私にとっては、それはただ「咀嚼して、嚥下すべき栄養素」に過ぎなかった。

 

「……It's delicious, isn't it?

(それ、美味しいでしょう?)」


 突然、隣からかけられた声に顔を上げると、そこには今朝、ホテルの共有スペースで見かけたターコイズブルーのリュックの女性が座っていた。


「あ……」


「We bumped into each other this morning, didn’t we? I’m Julia. I’ve come over from Hong Kong.

( 今朝も会ったわね。私、ジュリア。香港から来たの)」


 彼女は、私の皿を指差して悪戯っぽく笑った。彼女の目の前には、激辛そうな麺料理と、大きなタイガービールのジョッキがある。

 

「私は、スミレです。……美味しい、んだと思います。たぶん」


「Huh… that’s an interesting answer. You okay? I’ve never seen someone look so sad eating chicken. especially in Singapore.

( たぶん? 面白い答えね。あなた、何か悩み事でもあるの? せっかくのシンガポールなのに、そんなに悲しそうにチキンを食べてる人、初めて見たわ) 」


 ジュリアは二十五歳だと名乗った。香港でSE(システムエンジニア)として働いている彼女は、大ファンだというロックバンドのワールドツアー、そのシンガポール公演を観るために、有給を三日だけ取って飛んできたのだという。


「Work’s brutal, but I’d cross an ocean for my favorite rock band, no question. Life’s short, Sumire.

( 仕事は死ぬほど忙しいけれど、推しの歌を聴くためなら、海を越えるなんて造作もないわ。人生は短いのよ、スミレ) 」


 彼女の英語は流暢で、淀みがない。

 私は、たどたどしい英語とスマートフォンの翻訳機能を駆使しながら、少しずつ言葉を返した。

 彼女の放つ圧倒的な生命力と、迷いのない言葉の強さに、私の凍りついていた心が、ホーカーセンターの熱気も手伝って、ほんの少しずつ溶け出していくのを感じた。


「私は……日本で、九年付き合った人と一ヶ月後に結婚するはずだったんです。でも、十日前に、浮気が分かって。それで、全部捨ててここに来ました」


 翻訳アプリの画面に表示された文字列を追うごとに、ジュリアの瞳が大きく見開かれ、その表情は目まぐるしく変貌していった。


 最初は、見知らぬ男の不実に対する激しい怒りがその眉間に刻まれ、次の瞬間には、まるで自分自身がその裏切りを受けたかのように、痛ましく、深い悲しみを湛えた瞳で私を見つめた。

 感情をダイレクトに爆発させた後、彼女はようやく「ふう」と小さく息を吐き、波立っていた表情を穏やかな慈しみへと和らげた。

 

「Nine years? That’s a long time. It’s like he’s been shaping your whole life.

( 九年? それは長いわね。あなたの人生のパターンを、その彼がずっと握っていたようなものでしょう)」


 彼女がさらりと言った「型紙」という言葉に、私は心臓を射抜かれたような衝撃を受けた。私がパタンナーであることを、彼女は知らないはずなのに。


「……そう、かもしれない。私は、彼の形に合わせて、自分を切り取ってきたのかも」


「Come on, Sumire. In programming, broken code or code that destroys itself is just a bug. You fixed it early, and that’s what matters. Nine years is nothing. Try twenty.

(バカね、スミレ。システムの世界ではね、動かないコードや、自分を壊すようなプログラムは『バグ』って呼ぶの。そんなの、早めにデバッグして正解よ。九年で済んで良かったじゃない。これが二十年後だったら、もっと大変だったわ)」


 ジュリアは、ジョッキのビールを豪快に飲み干すと、私の肩をポンと叩いた。

 

「Don’t let that buggy past take away your ‘now.’ Here really savor that chicken. It gave its life, so you should at least let it make you feel better.

( そんなバグだらけの過去に、あなたの貴重な『今』の味覚を奪わせちゃダメ。ほら、そのチキン、よく味わって。鶏の命をもらってるんだから、あなたが元気にならなきゃ失礼よ) 」


 彼女の強引で、けれど温かい論理。

 私は促されるように、もう一口、チキンライスを頬張った。……先ほどよりも、少しだけ。生姜の香りが鼻に抜け、鶏の脂の甘みが舌の端で踊ったような気がした。


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