第8話 手作りテディベア『くまのスミレ』
体はまだ、怠くて重い感じがとれない。ガイドブックに載っている「Gardens by the Bayガーデンズ・バイ・ザ・ベイ」や「Merlion マーライオン」といった煌びやかな観光地は、今の私にはあまりに眩しすぎて、たどり着く前に眩暈で倒れてしまいそうだった。
シンガポールのカプセルホテルに到着して、二日目の朝。
本当なら、なにか観光の予定でも考えたほうがいいのだろう。でも、ベッドから起き上がる気にもなれず、私はそのまま横になっていた。
胃の奥が重く、食べ物を見る気にもなれない。何もせずにじっとしていると、考えたくないことばかり頭に浮かんでくる。忘れようとしても、気づけばまた同じことを考えていた。
もうすぐ迎えるはずだった結婚式を、自分で壊してしまったこと。ずっと続けてきたパタンナーの仕事まで、勢いで辞めてしまったこと。あのときの、困ったような両親の顔。そして……。
(……健一)
名前を思い浮かべた瞬間、涙が滲んだ。心臓がどくどくと速くなる。悲しい。腹が立つ。それなのに、胸の奥にはぽっかりと穴が空いたような感じもする。いくつもの感情が入り混じって、何が何だか分からなくなっていた。張り詰めた心が、今にも切れてしまいそうだった。
このままでは、またいろいろ考えてしまう。
私は気を紛らわせようと、バックパックの底にしまっていたソーイングセットと、日本から持ってきた布の端切れを取り出した。
それは、以前勤めていたアパレルブランドのオリジナル生地だった。何度も何度も触れてきた布の感触が、指先に伝わってくる。それだけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
私は指先を動かし始めた。
パターンを引かなくても、どこをどう切ればどんな形になるのか、身体が覚えている。布を指先で確かめ、ハサミを入れる。縫い合わせ、形になった胴体に、残った端切れを少しずつ詰めていく。ひとつ、またひとつ。手を止めてしまえば、また余計なことを考えてしまいそうだった。カプセルホテルの狭い空間で、私は黙々と作業を続けた。
ふと我に返って時計を見ると、四時間もの時が経っていた。それほどまでに、没頭していたのだ。
出来上がったのは、体長十五センチ、幅八センチほどの小さなテディベアだった。
がむしゃらに働いていた頃、何度も手に取っていた自社ブランドの小花柄の生地。その端切れをあれこれ組み合わせて作った。色も柄もばらばらだけれど、これはこれで私好みだ。
小花柄の生地は、さすが女性に人気のブランドだけあって、やっぱり可愛らしい。ただ、じっと見ていると、どこか寂しそうにも見えてくる。……私が今、そんな気持ちだからだろうか。「……ふふ」、思わず、小さく笑ってしまった。
どこか不格好なのに、今の私には、それがたまらなく愛おしかった。
針を動かしている間だけは、健一のことも、これからのことも、何も考えずにいられた。
布端を合わせ、針を入れる。生地を抜けるときの、指先に伝わる小さな感触。ただ手を動かしているだけなのに、それがとても心地よかった。
私は出来上がったばかりのくまのマスコットを、枕元に座らせてみた。
体長十五センチほどの小さな体。けれど、パタンナーとしての癖なのか、手足にはそれぞれ関節をつけて、本物のテディベアのように仕上げてある。
重心を整えて、座面をトントンと叩く。くまは倒れることなく、ちょこんと座った。
「……あなたも、独りなのね」
不器用な顔をしたテディベアが、何も言わずにこちらを向いている。それを見ていると、また少しだけ優しい気持ちになれた。
九年間、私は誰かの幸せを思いながら服を作ってきた。
けれど、これは違う。このテディベアは、今の自分のために作ったものだ。この子を眺めていると、少しだけ呼吸が楽になった気がした。私はその小さなテディベアに、自分と同じ『スミレ』という名前をつけた。そして、大切にバッグパックのポケットへしまった。
「でも、ずっと宿に閉じこもっているのももったいないわね」
自分を奮い立たせるようにして宿を出た。せめて甘いものなら、今の私でも食べられるかもしれない。そう思い、私はエッグタルトの名店として知られるチャイナタウンの老舗『Tong Heng 東興』へ向かった。
店先に着くと、香ばしいバターの香りと、焼きたてのパイ生地の匂いが漂っていた。ショーケースには、黄金色のひし形をしたエッグタルトがきれいに並んでいる。
一つ買って、店先のベンチに腰を下ろした。手渡されたばかりのエッグタルトは、紙袋越しにも熱さが伝わってくる。
まず、指先に触れたパイ生地の繊細さに驚いた。何層にも重なった生地が、触れたところからパラパラと崩れていく。
意を決して、大きく一口、頬張った。
――サクッ。
軽い音とともに、パイ生地が口の中でほどけていく。続いて、とろりとしたカスタードの甘さが広がった。
カスタードクリームの濃厚なコクと、ほどよい砂糖の甘み。そこにバターの香りが重なる。
「……甘い」
思わず、独り言が漏れた。
まだ「美味しい」と素直に思えるほどではない。それでも、温かいカスタードが胃の中に落ちていくと、少しだけほっとした。
健一と過ごした九年間、私たちはいつも『映える』店を選んでいた。
話題のイタリアン、洗練されたフレンチ。けれど、そこで何を話したのか、どんな味がしたのかは、もうはっきりとは覚えていない。
今、この店の前のベンチで一人で食べている焼きたてのエッグタルトのほうが、よほど「本物」の味がした。
パイの欠片を指先でつまんで、口に運ぶ。最後の一口を飲み込むと、ほんの少しだけ満たされた気がした。
私は、まだ大丈夫なのかもしれない。
店先に漂うバターの香りを嗅ぎながら、私は少しだけ背筋を伸ばした。
体力が戻ったわけではない。それでも、エッグタルト一つで、少しだけ街を歩いてみようという気になった。
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