第87話 ◇ 週明けのミーゴレンと、アシスタントのデヴィさん
月曜の朝。熱はすっかり下がり、体調はほとんど回復していた。クリニックの処方薬が効いたのだろうが、やはり、たっぷりの睡眠とあの卵おじやの効果が大きかったように感じる。
七時半にコンドミニアムのエントランスまで降り、迎えに来てくれた送迎車に乗り込む。
「ミスター佐藤、おはようございます」
「|Selamat pagi 《スラマッ・パギ》、アブドゥルさん」
専属ドライバーのアブドゥルさんと笑顔で挨拶を交わす。
案内役の富永さんは現地採用なので、先週一週間の案内役を終えた今週からはこの送迎車には同乗できないと聞いている。どうせ同じオフィスに通うのだから一緒に乗ればいいのに、と日本人の感覚としてはどうも納得がいかないが、今は赴任早々の身だ。現地の会社のルールに口を挟むわけにはいかない。
会社に到着した後は、オフィスで現地アシスタントの『Dewi デウィさん』と今日の予定の確認を進める。
デウィさんは二十四歳で入社して以来、ジャカルタ支社一筋で十二年勤め上げているベテランだ。日本語能力試験『JLPT』で最上級の『N1』を保持しており、ビジネスの複雑なニュアンスまで完璧に理解できるほどの才女だった。
俺は日本にいた頃、海外事業本部の主任として東南アジアの大型商業施設開発業務に携わっていた。そのため、書類の形式やプロジェクトの大まかな流れは頭に入っている。
出社早々、日本からの連絡に一通り目を通し、確認が必要な案件を現地法人の建築部長である田中へと報告した。田中の決裁をもらい、午後からは現場である郊外の建設途中の大型ショッピングモールを視察する予定だ。
まだ時々コンコンと軽い咳が出るものの、だるさはもうない。ランチは近くのフードコートへ行き、デウィさんと一緒に済ませることにした。彼女とのやりとりは日本語ですませることができるので、とても助かる。
「ミスター・サトウ、少し目が赤いですよ。風邪を引かれたと聞きましたが、本当に大丈夫ですか?」
デウィさんが、教本のように丁寧で、けれどこちらの体調をしっかりと気遣う綺麗な日本語で声をかけてくれる。昨夜、コンドミニアムでおじやを食べながら涙を流したせいだとは口が裂けても言えない。
「ああ、うん。もう大分いいよ。心配してくれてありがとう」
俺は平静を装って笑みを返した。
彼女は、現地のムスリム女性らしく頭に『Jilbab ジルバブ』と呼ばれる上品なスカーフを巻いている。今日のオフィスカジュアルな服装にもよくマッチしていて、とても洗練された印象を受ける。
デウィさんがにこやかな笑顔で、ジャカルタの生活や現地の文化について色々と教えてくれるのを聞きながら、ローカルフードの『Mie goreng ミーゴレン』を口に運ぶ。
インドネシア語で『Mie ミー』は麺、『Goreng ゴレン』は炒めるという意味らしい。要するにインドネシア風の焼きそばだ。
日本にいた頃、自分はエスニック料理が苦手だと思い込んでいたはずなのに、どうしてだろう。馴染みのあるソースの味に似ているからか、驚くほどすんなりと、美味しく食べることができていた。
「どうですか、お口に合いますか?」
「うん、すごく美味しい。もっとスパイスがきつくて食べられないかと思ってたよ」
「それは良かったです。ですが、無理はしないでくださいね。日本人はよく『空気を読む』をして、辛いものを我慢して食べますから」
クスリと笑う彼女は、現地事情に疎い赴任者には時に厳しいと聞いていたが、体調の悪い俺を気遣ってくれているのがよく分かる。非常に面倒見が良い人なのだ。
「デウィさんは、毎朝何時くらいに起きてるの? 通勤が大変だって聞いたけど」
「毎朝五時半です。主人と一緒に、十歳と七歳の子どもの通学の支度をしてから家を出ますので。ジャカルタの渋滞は『しょうがない』ですから、片道一時間はかかりますね」
家庭では二児の母親なのか。
旦那さんは小学校の先生をしているそうで、毎朝忙しく家族を支えながら、オフィスではこの完璧な仕事振りを維持しているのだから頭が下がる。
「それは大変だね……。残業をお願いするのも、なんだか申し訳なくなってくるよ」
「いいえ、それは仕事ですから気にしないでください。うちは、主人と二人で子どもたちの面倒を見ています。彼が協力してくれているから、私はこうしてバリバリ働けるのですよ」
そう言って、デウィさんは少し誇らしげに、優しく微笑んだ。
今回のジャカルタ赴任にあたり、俺は日本で会社から、インドネシアの情勢や社会的背景についてのレクチャーを受けていた。その際、特に厳しく注意を促されたのが『宗教的配慮』だ。
インドネシアは、世界最大のイスラム教徒・ムスリム人口を抱える国だ。何が失礼に当たるのか、どんな禁止事項があるのか、彼らの大まかな宗教観を事前にしっかりと頭に叩き込んでから、俺はここへ赴任してきている。
目の前で穏やかに微笑むデウィさんも、そうした信仰や宗教的な背景をベースに持つ、敬虔なムスリムの一人なのだ。彼女が大切にしている家庭や文化への敬意を忘れてはならないと、オフィスに戻る道すがら、俺は改めて自分に言い聞かせた。
就業時刻になってエントランスに降りると、偶然、富永さんと一緒になった。
「ああ、佐藤さん! 体調はどうですか? 顔色は……、さすがに金曜日よりは良さそうですね」
明るく声をかけてくれる富永さんに、俺は笑顔でお世話になったお礼を告げる。
「おかげさまで、本当に助かりました。土曜日はわざわざお気遣いのメッセージまでくださって、ありがとうございました」
「いえいえ。環境が大きく変わったんですから、体調を崩される方も多いんですよ」
「そうなんですね。いや、完全に室内の冷房と外気の気温差にやられたんだと思います。これからは上着でうまく調整しないとダメですね」
二人でそんな当たり障りのない会話をして、富永さんは「じゃあ、僕はこれで」と出口に向かおうと背を向けた。
「あっ、富永さん、待ってください! 良かったら、このあと夕飯をご一緒しませんか?」
俺は思い切って、彼を夕飯に誘ってみた。今夜はどこか、現地の日本食レストランに行ってみようと思っていたのだ。
「えっ、でも、体調は大丈夫なんですか? 食欲……戻りましたか?」
「はい。週末はずっと卵おじやばかり食べていたんで、そろそろちゃんとした日本食が恋しくなってしまって。一緒に行ってもらえませんか?」
「ああ、それなら喜んで」
富永さんは嬉しそうに顔を綻ばせてくれた。
現地採用のスタッフは普段、駐在員用の送迎車を使えないルールになっているが、俺が「僕のゲストとして同乗してください」とドライバーのアブドゥルさんに伝えると、富永さんも快く車に乗り込んでくれた。
こうして俺は、富永さんを誘って、彼の行きつけだというジャパニーズレストランへと送迎車を走らせた。
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