第86話 ◇ 慎二の説教と、愚行のあと先
週末は自宅にこもり、体調の回復に努めて十分な休息をとることにした。
寝て、水分をとって、おじやを食べる。薬を飲んで、また眠る。
まだ馴染みのない、がらんとした部屋の中に閉じこもって過ごす週末は、地味にメンタルに応えるものがあった。
土曜日の夕方には、富永から「体調はいかがですか? 差し入れなど必要なら持って行きますよ」と親切なメッセージが届いたが、これ以上週末まで迷惑をかけるのは申し訳なく、丁重に遠慮しておいた。咳が少し残る程度で、風邪の症状は大分回復していた。
そんな土曜の夜七時。トイレから出たタイミングで、ベッドサイドで鳴り続けているスマホの画面を確認すると、表示された名前は『慎二』だった。
いつになく鳴りやまない呼び出し音に、何かあったのかと焦りながら通話に出る。するとすぐに映像が繋がり、自宅のソファに座る慎二の姿がスマホに映し出された。
「おう、どうした? 何かあったか?」
俺の問いかけに、慎二はあからさまな仏頂面を浮かべている。これは――アレだ。
「兄貴! 約束破っただろ!」
予想通りだった。慎二の怒気に満ちた声が、スマホから弾けるように響く。
「あの時は、兄貴があまりにも落ち込んでたから! だから、特別にアカウントを教えたのに! 俺、絶対に連絡なんかするなって言ったよな! 何度も言ったよな!」
怒ったときのこいつの癖で、主語がないまま矢継ぎ早に言葉が飛んでくる。こういう時は黙って嵐が過ぎるのを待つしかない。何より、悪いのは完全に自分なのだから。
「すみれさんから今日、DMが来たんだよ。Instagramに気になるコメントがあって、もしかしたら兄貴なんじゃないかって。俺も言われて確認してみたけど、アレ、間違いなく兄貴だろ? なんだよ『そっか、好きなエスニック料理、食べられてよかったですね』って! 何度もチェックしすぎて、完璧に覚えちまったわ! 一体どういうつもりなんだよ!」
慎二が口にしたのは、間違いなく俺が勢いで書き込んだコメントだった。
これほどまでに慎二を怒らせ、呆れさせているというのに、俺の頭の片隅には――『すみれが、俺のコメントだと気づいてくれた』という事実が、例えようもなく嬉しく響いてしまっていた。
「しかも何だよ、あのユーザーネーム。『@tanzawa_hajimari16710』って、俺には意味はよくわからないけどさ、単純に推測するなら場所と日付だろ? すみれさんと付き合い始めたのは俺が高校生の頃だから、兄貴は大学生。二千十六年の『16』か? それなら『710』は、二人の記念日か何かなんだろ。何つうダサい真似してんだよ! カッコ悪すぎるだろ、兄貴!」
慎二の怒号は止まらない。
「兄貴が自分から傷つけて、旅に出した相手なんだぞ? その相手に、そんな未練たらしいユーザーネームで、『そっか』ってさ、コメント送るなんて、どう考えてもおかしいだろ! 本当にカッコ悪いよ、兄貴……! ああ、もう、マジでムカつく!」
慎二の怒りは、どんどんボルテージを上げていく。
実の弟からそこまで容赦なく罵倒されて初めて、自分がどれほど独りよがりで、とんでもないことを仕出かしたのかという実感が、じわじわと冷や汗になって背中を伝った。
「兄貴、コメント書いてから、すみれさんのInstagramをちゃんと見たのか?」
「あ、ああ……見たよ。毎日、見てる」
「やっぱり毎日見てたのかよ! ああもう、そうだとは思ったけど、マジでムカつく!」
スマホの画面いっぱいに、慎二の怒り顔が映し出される。
慎二は一度、天を仰いで大きく息を吐き出すと、今度は俺に言い聞かせるように、少しだけ声を落として話し始めた。
「兄貴。あのコメントを見て、何も気づかなかった?」
「……いや、特に。気づくって、何をだ?」
「Instagramってさ、コメントの右横に、アカウントの持ち主から『いいね』の意味の赤いハートが付くんだよ。あとで確認してみなよ。兄貴のコメント『以外』には、全部ハートが付いてるから」
俺は、慎二の言葉に愕然とした。
そんな仕様は知っていたはずだった。だが、自分のコメントに反応があるかどうかなど、全く気に留めていなかった。
「もう一度、ちゃんともう一回、すみれさんの投稿を見てよ。すみれさん、兄貴のコメントにだけ、いいねを付けてないんだ。つまり、兄貴のコメントだけが、あの場所で真っ白なまま取り残されてるんだよ」
あまりの衝撃に、喉が張り付いたように言葉が出なかった。
黙り込んだ俺を見て、慎二は少し言い過ぎたと思ったのか、さらに静かなトーンで語りかけてくる。
「兄貴もさ、そっちに行って、急に寂しくなったのかなって思うよ。思うけどさ……やっぱり、やっていいことと悪いことがあるだろ。すみれさんのアカウントを教えちゃったのは俺だし、俺も約束を破った裏切り者だから大いに反省してる。でもさ、兄貴がそこにコメントを残すのは、絶対にダメなんだ。あそこまで追い詰めといて、これから新しい世界を作ろうとしているすみれさんを、世界中で兄貴だけは追いかけちゃいけないんだよ」
今まで、いつも優秀で、かっこいい存在だったはずの兄が、異国のベッドの上で子どものように項垂れている。
「わかってほしいんだよ、少しはすみれさんの気持ちを。だから、今すぐそのコメントを削除してほしい。コメントを消せるのは、アカウントの持ち主であるすみれさんと、コメントを書いた本人だけなんだ。それなのに、すみれさんは消さずに残してる。でも、いいねは絶対に付けない。この無言の気持ちを、兄貴はちゃんと汲み取らなきゃダメだ」
それだけを厳しく言い含めると、慎二は「じゃあな。体、大事にしろよ」と、ぶっきらぼうに告げて通話を切った。
呆然としながらも、俺は慌ててすみれのInstagramを開いた。
彼女の投稿を確認する。
フォロワー数が二万人を超え、多くのファンから数百もの「いいね」や温かいコメントが寄せられている華やかな画面。その賑やかなコメント欄をスクロールしていく。
――血の気が引いた。
慎二の言った通りだった。ずらりと並ぶ他のユーザーのコメントの横には、漏れなく赤いハートマークが付いている。
けれど、俺の『@tanzawa_hajimari16710』が残したコメントの横だけは、ぽっかりと空白のままだった。
すみれは、気づいていたのだ。
これが俺からのアプローチだと分かった上で、あえて削除もせず、ただ、静かに線を引くように拒絶していたのだ。
自分はすみれを傷つけただけではなく、新しい出発の邪魔までして、迷惑をかけていたのか。
思い知らされた事実に、目の前が暗くなるほどの自己嫌悪が押し寄せた。あえてコメントを消さずに、無言の拒絶を示したすみれらしい毅然とした判断が、ただただ申し訳なかった。
(ごめん……すみれ、ごめんな……ごめん)
心の中で何度もすみれに謝りながら、あの不躾なコメントを消し去った。
時刻は、八時半を回っていた。
夕飯を食べるべき時間だったが、胃の奥が冷え切ってしまい、全く食欲が湧かない。けれど、処方された風邪薬を飲むためには何か胃に入れなければならない。
俺はのろのろとキッチンへ向かい、再び卵おじやを作り始めた。
広いキッチンで鍋をかき混ぜていると、不意に、涙がボトボトと溢れて落ちた。
あまりの自分の不甲斐なさと、独りよがりな愚かさが、抑えきれない悔しさとなって込み上げてくる。
出来上がった卵おじやを、涙の味と一緒に無理やり喉の奥へ押し込み、薬を水で流し込んで、逃げるようにベッドへと潜り込んだ。
夢の中でもいい。
夢の中でもいいから、君に、心から謝ることができたなら――。
(おやすみ、すみれ)
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




