第85話 ◇ 思い出おじやと、抑えられなかった衝動
ジャカルタ赴任五日目。元来、数年に一度風邪を引くくらいで、病気らしい病気とは無縁の頑丈な体だったはずなのだが、この地に到着して早々、体調を崩してしまった。
外のうだるような暑さと、室内の冷房の温度差。それに加えて、シャワーを浴びた後にエアコンをガンガンに効かせた部屋で寝てしまったのが悪かったのだろう。頭痛と喉の痛み、微熱があるのか熱っぽくて、体がだるい。冷蔵庫にはろくなものが入っていないし、ちょっとコンビニまで行く気力すら湧かない。そもそも、近くにコンビニがあるのかどうかすら、今の自分には分からないのだ。
とりあえず、赴任後すぐに体調不良で休むわけにもいかず、明日は週末なこともあり、気合いで出社することにした。
だが、ゴホッゴホッと咳まで出始めて、体調はどんどん悪くなっていく。午後には明らかに熱が上がってきたように感じていた。残り少しの時間だと思い、なんとか乗り切ろうと頑張ってはみたものの、見かねて気を利かせてくれた富永さんが、日本語で対応してくれるクリニックに連れて行ってくれた。
幸い、診察を受けて解熱剤の注射を打ち、薬を処方してもらうことができた。薬さえもらえたら、これ以上は悪化しないだろうと思うと気持ちが楽になった。
「佐藤さん、大丈夫ですか? 無理は禁物ですよ。皆さん、最初は環境の変化で自律神経の調子を乱すようですから」
「富永さん、今日はお手数をおかけして本当にすみませんでした。おかげで助かりました。明日から週末なので、大人しく自宅でゆっくり休みます」
クリニックを出ると、富永は「いやいや」と、気さくに顔の前で手を振りながら笑った。
「気にしないでください。それより、明日は自宅で静養するとして、食事はどうしますか? 買い出しか、どこかでテイクアウトでもして帰ります? 一応、近くに日本食レストランもありますけど」
「ああ、日本食か。魅力的ですけど、今は、あまり食欲がなくて。米さえ手に入れば、部屋に炊飯器はあったので、お茶漬けでも食べようと思います」
「お茶漬けですか。やっぱり、あの永谷園のやつですか? あとは、梅干しとか?」
「そうそう。日本を発つ時、弟が心配して持って行けと無理やり持たせてくれたんです。こういう状況になると、本当に持ってきてよかったと思います。あいつには感謝しないとな」
「お兄さん思いの、いい弟さんですね」
富永が、本当に感心しているように褒める。
「ははは。まあ、そうですね。いい弟です。富永さんはご兄弟は?」
「僕は姉が一人います。結婚して実家の近くに住んでくれているので、両両親も孫に囲まれて喜んでますよ。おかげで長男の僕が、こうして気楽に海外で自由にさせてもらえてるんです」
「なるほど。それは、ご両親も心強いでしょうね」
二十九歳の男二人の会話にしては、ずいぶんと落ち着いた世間話だった。
「よし、じゃあスーパーに寄りましょう。荷物は僕も運びますから、必要なものをしっかり買い込みましょう」
そう言って富永が率先してカートを押してくれた。クリニックで打ってもらった解熱剤の注射が効いているうちに、私たちは大型スーパーマーケットで買い出しを済ませることにした。
富永の手助けのおかげで、スポーツドリンクやゼリー、果物、そして十キロの米と卵、体温計を購入した。アブドゥルさんの運転する車に荷物を積み込み、私は足早に自宅のコンドミニアムへと帰宅した。
まずは重い体を引きずってシャワーを浴びる。冷房の温度設定を二十五度にし、軽くゼリーを食べて、風邪薬を服用した。
ベッドサイドに、買ってきたスポーツドリンクと、ミネラルウォーターのボトル、体温計と冷えピタを置く。ゴミ箱を買い忘れたので、荷物を出した空き箱をゴミ箱代わりに足元へ置いた。シーツの上には汗をかくことを見越してバスタオルを敷き、着替え用のTシャツと短パンも重ねて置いておく。
準備を整え、ゴロンとベッドに横になったのは夕方の六時過ぎだった。薬の効果もあってか、目を瞑るとすぐに眠りに落ちた。
夜中に一度、喉の渇きで目が覚めた。
全身ぐっしょりと汗をかいていたが、熱は引いているようで、頭痛もずいぶんと楽になっていた。濡れたシーツ代わりのバスタオルを剥ぎ取り、シャワーを浴びて新しい下着とTシャツに着替える。体温を測ると三十七度まで下がっていた。
「これじゃ、また風邪をひいちまうな。しっかりしないと」
自分に活を入れるように呟き、水分を十分に補給してから、冷えピタを貼り替えて再びベッドに潜り込んだ。
次に目を覚ましたのは、早朝の六時だった。
熱はすっかり下がり、昨日のだるさが嘘のように体が軽い。スポーツドリンクを一口飲み、おでこの冷えピタを剥がす。
もう少ししたらシャワーを浴びて洗濯機を回そうと思いながら、寝転んだままスマホに手を伸ばした。無意識のうちに指が動き、日課になっているすみれのInstagramを開く。
テディベアが、マラッカ名物らしいチキンライスをまるで食べたそうに覗き込んでいる写真。いつも通りの、見慣れた安心する画像だった。
あと二時間くらい眠ろうかとも思ったが、熱が下がったせいか、今度は急に猛烈な空腹感が襲ってきた。
寝るのを諦めてベッドから起き上がり、米を三合研いで炊飯器のスイッチを入れた。
米が炊き上がるのを待つ間に、シャワーを浴びてシーツを交換し、洗濯機を回す。病み上がりだからか、少し動くだけでも妙に疲れやすかった。
やがて、炊飯器から小気味よいメロディが流れる。
当初はお茶漬けにするつもりだったが、なぜか急に、卵おじやを作りたくなった。
体調が悪いとき、かつてすみれが作ってくれた思い出の味だ。慎二が日本食セットと一緒に持たせてくれた顆粒の和風だしと、スーパーで購入した塩と醤油が、ここで役に立った。
炊き上がったご飯に水と出汁の素を加えて火にかける。ふつふつと煮立ったところへ溶き卵を流し入れると、淡い黄色の花が咲くように広がった。塩と少量の醤油で味を調えれば完成だ。すみれが作っている姿を、何度も台所の脇から眺めていたからこそ覚えているレシピだった。
「俺、料理してるよ……こんな姿見たら、驚くんじゃないかな。いや、笑うかな」
ぽつりと呟き、レンゲで口に運ぶ。けれど、自分で作った卵おじやの味は、あの頃にすみれが作ってくれたものとは、どこか違って感じられた。
ふと、おじやを食べながら眺めていた、スマホの中のInstagramのコメント欄が目に入る。
慎二からは、『すみれさんには絶対に連絡しないこと』と釘を刺され、分かったと約束した記憶が蘇る。
だけど――自分だと気づかれなければ問題ないんじゃないだろうか。
一度そう思い立つと、もう居ても立ってもいられなくなった。自分のコメントがすみれの目に留まる。それだけで、また彼女と繋がれるような気がして、衝動を抑えきれなくなったのだ。
心臓をバクバクと高鳴らせながら、コメント欄に言葉を打ち込んだ。
『そっか、好きなエスニック料理、食べられてよかったですね』
ユーザーネームは『@tanzawa_hajimari16710』。
自分だと気づいてほしい。けれど、慎二との約束は守らなければいけない。そんな、矛盾する二つの歪んだ思いが交差していた。
緊張で指先を震わせながら、送信ボタンをタップする。
たったそれだけのことに、喉がカラカラに渇くほど緊張している自分に気がついた。そして同時に、確かにすみれの世界と繋がれたのだという事実に、涙が出そうなほどの歓喜を覚えている自分自身に、激しく戸惑っていた。
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