第84話 凍りついた指先
ドクン、と心臓が高鳴る。嫌な緊張でスマホを持つ指先が、じんわりと冷たくなっていくのが分かった。
私は、そのコメントにだけどうしても『いいね』を押せなかった。
他の温かいコメントには、すべて赤いハートマークがついている。そうなると、なぜそのコメントにだけハートがついていないのか、閲覧者は誰も気にしないかもしれない。けれど、自分だけはその違和感がひどく気になって、どうしても画面をタップする気になれなかったのだ。
一度思い当たってしまった「あの人」の存在が、頭から離れなくなる。
私は意を決して、そのユーザーネームをもう一度確認した。
『@tanzawa_hajimari16710』
その文字列を目にした瞬間、すぐに、パズルのピースがピタリとはまるように思い当たることが浮かんだ。
私と『あの人』が所属していた、関東圏の大学生で構成された登山サークル。
大学二年生だった私たちは、十年前の七月十日、早朝に新宿駅で集合して『丹沢の塔ノ岳』へと向かった。
朝の八時頃から登山を開始して、午後三時頃に下山。その下山の途中で、私は『あの人』から交際を申し込まれたのだ。
あの『始まりの日』から、九年。
まさか、その先に婚約破棄が待っているなんて、当時は思いもしなかったけれど。
当時、一緒に登った山の名前と、交際が始まった記念すべき日をそのままユーザーネームに設定するなんて。もう、私に「自分だと気づいてくれ」と言っているようなものだ。
あの人は、こんなにも未練がましい人だっただろうか。私の知るあの人は、常に自信家で、いつも話題の中心にいて快活に笑っているような人だったはずなのに。
それと同時に、一つの大きな疑問が頭をもたげる。
――なぜ、あの人はこのアカウントを知っているのだろう。
おそらく、情報の源はあの人の弟である慎二君だ。
慎二君は時々、私の投稿にコメントをくれる。私がシンガポールから絵葉書を送った際に、Instagramを始めたことを伝えてあった。その時、あの人には決して教えないようにと、しっかり書いたはずだった。
だが、やはり、お兄さんに話してしまったのだろうか。いくら私とも長く親交があるとはいえ、所詮は「他人の私」より「実の兄」との絆のほうが強いのだろうか。
長年付き合ってきて、慎二君の性格はよく知っている。決して約束を破るような子ではないと信じていただけに、少し残念な気持ちが胸に広がった。
私は自分のプロフィールページを開き、フォロワーのリストから慎二君のアカウントを探した。確か、こんな感じのユーザーネームだったはずだ。スクロールしていくと、すぐに見慣れたアイコンが見つかった。
『@ramen_shinji723』
画面に表示された彼らしいストレートなユーザーネームは、どこか微笑ましくて少しだけ心が和む。あの人だと疑われる、あの思わせぶりで執拗なユーザーネームとは大違いだ。
少しの間、画面をじっと見つめて躊躇した。けれど、このまま一人でウジウジと考えていても結論は出ない。もしかしたら、まったく関係のない誰かの、私の思い過ごしという可能性だってゼロではないのだから。
(でも、登山した場所に、交際の始まりの日。この数字は、まさにその当日の日付……。こんな偶然って、本当にあるのかしら……)
私は慎二君のプロフィール画面から、メッセージを送るボタンをタップした。
『お久しぶりです。お元気でしょうか? 突然のメッセージで驚かせてしまったらごめんなさい。実は今、「@tanzawa_hajimari16710」というユーザーネームのアカウントからコメントをいただきました。もしかしたら健一君なのかなと思い、確認のためにDMを送らせてもらいました。慎二君、お兄さんに私のInstagramのことを話したりしましたか? もし私の勘違いだったらごめんなさい。
私は今、たくさんの方に助けてもらいながら、元気に旅を続けています。いつもコメントをくれてありがとう。まだ帰国する予定はありませんが、しばらくはこのまま旅を楽しみたいと思っています。慎二君も、お仕事頑張ってくださいね』
何度か書いては消し、慎重に言葉を修正しながら、やっとの思いでメッセージを送信し終えた時には日付を跨いでいた。
送信ボタンを押したものの、そこからなかなか寝付けず、私はベッドの中で何度も寝返りを打った。
暗闇の中で、何度もスマホの画面を点灯させては時間を確認する。
私は時間を確認しているだけなのだろうか。それとも、慎二君からの返信が来ていないかチェックしているのだろうか。自分でももう、よく分からなくなっていた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。次に目が覚めた時、スマホの画面に表示された時刻は、朝の六時半だった。
最悪の目覚めだった。
夢の中で、私は山を歩いていた。前を歩いているのは、懐かしい健一の後ろ姿だ。彼はどんどん先へと進んでいってしまい、私を振り返ることもない。そのまま登山道を下っていく背中に向かって、私は何度も彼の名前を呼んだけれど、ついに立ち止まってはくれなかった。
ふと、頬が濡れていることに気がつく。
指先で涙のあとをなぞりながら、私は朝だというのに、ひどく深い溜息を吐き出した。
(せっかくここ数日は、彼のことを思い出すことすらなかったのに……。また、あの頃に逆戻りだわ)
いつまでも引きずっているわけにはいかない。
今日はホテルをチェックアウトして、次の目的地であるAgra アグラへと移動する日だ。アグラには、赤い城砦として有名な「Agra Fort アグラ城」と、世界で最も美しい墓廟と賞される「Taj Mahal タージ・マハル」がある。
私は重い体を起こし、次の移動の準備を始めるためにベッドから足を下ろした。
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