第83話 美味しい中華料理と、冷たい確信
『シティ・パレス』の観光を終え、夕方六時近くに私たちは一度ホテルへと戻った。
一日中歩き回って汗を吸ったパンジャビドレスをホテルのクリーニングに預け、シャワーを浴びてさっぱりする。髪を乾かしてから、私にとっての定番であるTシャツとジーンズに着替えると、ようやくいつもの自分に戻ったような安心感に包まれた。
ソファスペースに足を向けると、ナナちゃんが狭山さんにYouTubeの動画編集について熱心にアドバイスをもらっているところだった。
「だからさ、編集はもう外のスタッフに依頼しちゃった方がいいって。ナナちゃんは最後のチェックだけ必ずやって、自分の世界観を相手に掴んでもらえばいいんだよ。撮影のスケジュールが編集作業のせいで押すなんて、勿体なさすぎるし」
「はい……私も本当にそう思います。でも、いざ任せるとなると、細かいところが気になっちゃうんですよね。ああ、誰か、私の好みをバシッと形にしてくれる優秀なスタッフさんいないかなあ!」
「それなあ。センスが良くて、なおかつ気の合うやつってさ、探してもなかなかいないんだよね」
「そうですよね。先輩の配信者のみなさんも、みんなそうおっしゃいますもんね……」
二人のそんなやり取りを微笑ましく眺めながら、私もソファに腰掛けた。
今晩の夕食は、SNSで高評価の中華スタイルのレストラン『ALO Chinese bistro』を予約していた。カレー続きだったインドの旅で、久々に味わう馴染み深いアジアの味に、私たちは出発前から期待を膨らませていた。
ホテルから配車アプリで到着した車に乗り込んで約二十分。到着した『ALO Chinese bistro』は、モダンで洗練された佇まいの店構えだった。大きなガラス窓からは温かみのある照明が溢れ、一歩足を踏み入れると、スパイスの効いたインド料理とは全く違う、どこかホッとする醤油やごま油の香ばしい匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。
店内は地元のお洒落な若者や家族連れ、外国人の観光客たちで満席に近い賑わいを見せていた。白いクロスがかけられた円卓には、ツヤツヤとした飴色の照り焼きや、湯気が立ち上る小籠包のような器が次々と運ばれていく。その活気ある光景を見ているだけで、お腹の虫が鳴り出しそうだ。
案内された席につき、さっそく差し出されたメニューを開いた瞬間だった。
「お寿司ありますよ!海外でよく見る、いろいろな裏巻きのお寿司です」
ナナちゃんがビュッフェカウンターの一角を指差して、楽しそうな声をあげる。
「あら、本当ね。サーモンとか、アボカドが乗っているのね。綺麗ね」
「うん。海外の人は、握りも刺身も食べるけど、ロールの方がポピュラーだよね」
「勝手な先入観ですけど、生魚じゃない方のロールなら心配なく食べられそうですね」
「そうだね。スモークサーモンもあるから、抵抗なく食べられると思うよ」
「じゃあ私、まずはそのスモークサーモンのロールからいってみます! あ、すみれさんもアボカドのやつ食べましょうよ!」
「ええ、そうね。海外風のアレンジ寿司って、日本とはまた違った華やかさがあって、見ているだけでも楽しくなっちゃうわね」
私たちはシェアするつもりで、一口サイズに八等分された『具材の乗った裏巻き』を三本ほど注文した。
運ばれてきたお皿を前に、私が取り箸を手に取ると、コウさんがお皿をそっと差し出してくれながら笑った。
「味付けもマヨネーズとかスパイシーなソースがかかってたりして、意外と癖になるんだよね。さ、二人とも遠慮しないでどんどん取って」
アボカドとスモークサーモンの乗った裏巻きの中には、スパイシーソースで和えたカニカマと天かすが入っていた。醤油をつけなくても十分に美味しい。日本の鉄火巻きや干瓢巻きとは、また違った美味しさがあった。
ナナちゃんがメニューを見ながら、恨めしげな表情を浮かべる。
「飲茶に、ワンタンスープ。それに炒飯にヌードルまでありますよ!こんなに食べれないのは分かってますけど、悔しいなあ」
確かにメニューを見ているだけで、目があれもこれも食べたいと思わされる。自分はこんなにも中華料理、いや、インド料理以外が食べたかったのかと自覚させられる。
会話は自然と、食べ物の好き嫌いの話題へとうつっていった。
「へえ、ナナちゃん、メロンが苦手なんだ。あんなに甘くて美味しそうなのに、匂いがダメっていうのは意外とあるよね」
コウさんが面白そうに相槌を打つと、ナナちゃんは大きく頷いた。
「そうなんですよ! 周りからは『人生損してる』ってよく言われるんですけど、アレ、本当にムカつきます! いったい誰基準ですかって思うんですけど、反論はグッと飲み込んでます。本当にあの独特のウリっぽい香りが受け付けなくて……。すみれさんの粕漬けも、あの独特の発酵した香りが理由ですか?」
「そうね、やっぱりあの独特の香りと、お酒の強い風味が少し鼻に抜ける感じがどうも得意じゃなくて。実は日本酒も苦手なのよね。でも、メロンが苦手なのは、贅沢なような、ちょっとかわいそうなような不思議な感じね。あっ!これも余計なお世話ね。ふふふ」
私がクスッと笑うと、ナナちゃんは大きく頷いてから、メニューに視線を落とし、今度は真剣な表情で「あ、でもこの中にはメロンも粕漬けもなさそうだから安心です!」と声を弾ませた。
「よし、じゃあ気を取り直して、まずはこの飲茶の盛り合わせと、あと気になるこのセットメニューをみんなでシェアしませんか?」
彼女の明るい声に、私とコウさんは笑顔で同意した。
運ばれてきた飲茶やセットメニューはどれも絶品で、私たちは久々の中華料理を心ゆくまで堪能した。お腹も心も満たされた満足感の中、楽しい食事を終えてホテルへと戻る。
部屋に帰ると、コウさんとナナちゃんは、日中に買っておいたビールを片手にソファスペースへと向かった。まだ話し足りない様子で楽しそうにしている二人だったけれど、私はさすがに一日の疲れが出てきてしまった。
「私は先に休ませてもらいます。おやすみなさい」
二人にそう声をかけて断りを入れ、自分のベッドルームへと引っ込んだ。
浴室で温かいシャワーを浴びて、ホッと一息つく。
髪を乾かしてからベッドに横になり、一息ついたところでスマホを手に取る。朝に投稿しておいたInstagramのコメント欄をチェックする。
今朝アップしたのは、マラッカ川の遊歩道にあったカラフルな壁画の前に立つ、旅の相棒『くまのスミレ』の画像だった。
『テディベア、可愛いですね』
『マラッカ、以前、旅行しました』
『いいお天気ですね!素敵です!』
画面をスクロールしていくと、そんなファンからの温かいコメントが並んでいる。微笑みながら眺めていた私の指が、ふと、あるコメントの前でピタリと止まった。
『そっか、好きなエスニック料理、食べられてよかったですね』
何の変哲もない、普通の感想に見えるかもしれない。
けれど、私の指は画面の上で完全に凍りついた。
『そっか』
私の脳裏に、かつて何度も聞き慣れたあの人の口癖が、あまりにも鮮明に再生される。
このアカウントが私だと知っているのは、慎二やリリー、そして彼女の友人たちくらいだ。でも、慎二ならこんな回りくどい言い方はしない。リリーたちのコメントなら英語だ。
このアカウントのどこにも、自分の好物なんて一度も書いたことがないのに、私がそれを「好き」だと知っている人物。
それは、世界にたった一人しか思い当たらなかった。
まるで、過去の私たちの時間をすべて知っているあの人が、液晶の向こうから私をじっと見つめて、親しげに語りかけているかのような――そんな、冷たい確信が背筋を駆け抜けた。
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