第81話 深夜のコーヒーと、狭山の思い出話
片山さんに連絡してみようという流れになり、ビデオ通話を呼び出す。コウさんと片山さんのやりとりは相変わらずの軽快さで、画面の向こうとこちら側で交わされるテンポの良い応酬に、見ている私まで思わず笑ってしまう。
「いいねえ、君たちだけ旅気分でさ。こっちは編集作業で缶詰めだよ、缶詰め。ああ、僕って今、バケーション中じゃなかったっけなぁ!?コウ、お前は両手に花で羨ましいよ」
そんな羨ましげなボヤキで笑いを誘った片山さんを、コウさんが苦笑しながら「じゃあな」と画面タップで強制終了させる。ブツン、と通話が切れたあとも、部屋にはしばらく愉快な余韻が残っていた。
楽しい夜を過ごした私は、その後もYoutube談義に花を咲かせているコウさんとナナちゃんの二人に、ひと足お先にお休みの挨拶をして、自分のベッドへと引き上げた。
◇
ナナが、興味津々という顔でコウに尋ねる。
「コウさん。ぶっちゃけ、すみれさんのこと狙ってますか?」
コウが、口に含みかけたコーヒーを吹き出しそうになり、激しく咽せて咳き込んだ。
「あっ、ごめんなさい!大丈夫ですか!?はい、ティッシュ!」
ナナが手渡したティッシュで口元を抑え、コウが息を整える。
「危なかった。本当に、この高そうなソファにコーヒーをブチまけるかと思ったよ」
「すみません。だって、純粋に不思議で」
「ふう。何が不思議なのさ?」
「ええー。だって、コウさんって、YouTube 関係者からは、モテモテだから雲の上の人だよって聞いてたんですけど。どうも、すみれさんに対する態度を見てると、違うっぽい印象だから」
「ああ、まあ、噂はね。そんなもんじゃないかな、噂って。ナナちゃんだって、『恋多き美人YouTuber』ってバズってなかったかい?」
「ああ、まあ、そうですね。噂なんて、そんなもんですよね」
二人でため息をついて、同時にコーヒーを一口飲む。
「でも、コウさんのすみれさんに対する態度って、なんか、イメージと違うんですよね」
「そう?どう違うのかな」
「なんか、初対面の時から、ちょっと違っていて……。まるで、ずっと好きだった片思いの人にようやく会えたみたいな……そんな印象を受けました」
「……へえ。そうなんだ」
そこで、コウは少し黙り込んで、ソファに深く背を預けた。
一つ大きく息を吐くと、真面目な顔でナナに目を向けた。その顔には、いつもの余裕のある優しい笑みとは違う、真剣な緊張感が漂っていた。
「実はさ、俺、昔彼女に会っているんだよね。あの当時、大学生だった頃の彼女に直接、助けられたことがあるんだ」
コウの口から出た予想外の言葉に、ナナの瞳が見開かれる。
「えっ!でも、すみれさんは間違いなく初対面だと思ってますよね」
「うん。そうだね。まったく記憶にないんだろうね、ははは」
「そんなことあります? コウさんほどのイケメンに会ったら、普通は絶対に忘れないですよ。確かにすみれさんは真面目だし、あんまり男の人を意識しないタイプっぽいですけど、それでも普通は覚えてますって!」
食い下がるナナに、コウが懐かしい思い出話を始めた。
「彼女に会ったのは、俺が高三で、大学への進学は決まってたけど、このまま進学するか、海外に旅に出るか迷ってたガキの頃なんだ」
「えっ!そんなに昔ですか!コウさんの高三の時の姿なんて、ファンが涎ものじゃないですか」
ナナちゃんが笑いながらひやかす。
「いや、本当に生意気なガキだったよ、当時の俺。そんなガキがさ、朝の通学途中に急にひどい腹痛に襲われて、駅のベンチから動けなくなっちゃったんだよね」
ナナは、コウが遠い昔を思い出しながら語る言葉に、静かに耳を傾けた。
「で、ベンチで項垂れてた俺に、一人の若い女性が声をかけてくれた。今回、二つ上だって聞いて、あの当時は大学生だったんだと知ったよ。当時の彼女は、俺に病院に行くかと聞いて、大丈夫だと答えた俺を、歩けるか?と確認した後に、腕を支えてタクシー乗り場まで連れて行ってくれた」
コウの視線の先では、今でもその時のすみれが見えているようだった。
「一応、タクシー代はあるかって聞かれてさ。俺はあるって答えたんだよ。でも、彼女は俺が告げた行き先を聞くと、ドライバーさんに『そこまでだと、だいたいおいくら位になりますか?』ってパッと確認したんだよね。それで、俺の返事と照らし合わせて安心したかったのか、自分の財布から千円札を取り出してドライバーさんに手渡したんだ。『足しにしてください。この子、すごく具合が悪そうなので、どうかよろしくお願いします』って。それから、俺の行き先がちゃんとドライバーさんに伝わったのを見届けてから、彼女は優しくドアを閉めてくれた。あの時の、確認する手際の良さとか、俺を心配してくれた真っ直ぐな目とか……今でもはっきり覚えてるよ」
コウは、大きく息を吐く。
「たったそれだけ、その時だけの恩人だな。で、当時の俺は、そんな優しい女性のことをそのまま忘れてしまってたんだ。自分中心の世界で生きる、生意気なガキだったからね」
「 つまり、今回のインドでの再会がきっかけで、その忘れていた恩人の顔を思い出した、ってことですか?」
「いや、この話には続きがあるんだ」
「えっ?」
「俺が大学を卒業した直後にさ、彼女を見かけたんだ。この話は片山にもしたんだけど、あの時に一緒にいたのは片山だったからね。当時、俺と片山が代官山のカフェのテラス席でランチしてた時、彼女が一人で入店してきてさ、あれ、あの時の女性だって思い出したんだ。当時のお礼を伝えようか迷ったんだけど、でも、声はかけなかった。彼女は誰かと待ち合わせだったらしくて近くの席に座ったんだ。それから一時間くらいかな……彼女、ずっと飲み物だけで相手を待ってたんだよね。俺と片山が食事が済んで帰る段になっても、彼女の待ち人は現れなかった。その時はそれきりだったんだけど、ポツンと一人で待ち続ける彼女の横顔が悲しそうで、妙に印象的だったんだ」
「それは、また……。それで、すみれさんの顔をしっかり覚えた感じですか」
「まあね。でも、その後に、また会ったんだ。あれは社会人になって、友人と中目のスペインバルで夕方に待ち合わせした時、そこに彼女がいたんだ。その時も一人でさ。たぶん、二十五歳くらいだったのかな。俺たちが何杯か飲んで店を出るまで四十分くらいだったと思うんだけど、支払い中に、やっと彼女の待ち人が現れたんだ。その男の印象は、イケてるスーツ姿の整った顔立ちの男だったよ。ああ、こいつが彼氏かって思ったんだよね。その時の彼女は、すごく……なんていうか、安心したような表情だった。それでいて、どこか寂しそうだった。なんか、『そんな男やめろよ』って思ったことだけは、印象に残ってたんだ」
「広い東京でも、そんなに偶然の出会いってあるんですね」
「ああ。生活圏が一緒だった時期があるんだろうね。その後は、その男の方だけ、何度か街で目にしたよ。その時に一緒だったのは、彼女じゃなかったけどね……」
ナナは、少し言い淀んだ後、意を決したように口を開いた。
「詳しい事情はすみれさんの口から聞いてほしいので、私からは言いません!でも……、すみれさんが旅に出た理由は、結婚式の一ヶ月前に、婚約者の浮気で全てが中止になったからだそうです。その婚約者が、もしかしたら、その男の人なのかもしれませんね。九年間もお付き合いされたって話してましたから……ひどいです。もしかしたら、その当時からずっと、浮気してたのかもしれないじゃないですか!」
「……ひどいな。そんなことって、あんまりだね」
「本当に、ひどい話です」
そう言ってナナは小さくため息をつき、手元のカップを置いた。
「あ、今の話、コウさんからすみれさんに問い詰めたりしちゃダメですからね? 私、怒られますから」
「わかってるよ。話してくれてありがとう、ナナちゃん」
お互いにお休みの挨拶を交わすと、二人はリビングスペースを後にして、それぞれの静かな部屋へと引き上げていった。
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