第77話 駅弁と、見えない配慮
列車が動き始めてしばらくすると、GoProを片手にしたナナちゃんは、さっそく列車内の撮影に出かける準備を始めた。貴重品は部屋に置いていき、身分証のためにパスポートとチケットだけはしっかりと身につけて持参するようだ。
「じゃあ、ちょっと端の他のクラスの方まで歩いてきますね。すみれさん、途中でコウさんに声をかけてから行きます。そのうちコウさんがこちらに来ると思いますけど、ノックされてもちゃんと声を確認してから解錠してくださいね」
「ふふふ、ありがとう。ナナちゃんこそ、あんまり無理しないでね」
頼もしい配慮をのぞかせ、明るい笑顔を残してナナちゃんが部屋を後にした。
ナナちゃんが客車を後にしてから間もなく、コンパートメントのドアがトントン、と控えめにノックされた。
私は返事をすべきか一瞬迷いつつ、そのまま声を潜めて様子を窺っていると、ドアの向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「すみれさん、俺ですけど、大丈夫ですか?」
コウさんの声だと分かり、私は思わずホッと安堵の息を吐き出しながら、慌てて内側のロックを外してドアを開けた。
そこには、どこか心配そうな表情を浮かべたコウさんが立っていた。
「あ、コウさん。わざわざ声をかけてくださってすみません。さっきナナちゃんは、列車内の撮影に出かけていきましたよ」
「ああ、はい。さっき声をかけてもらったんです。すみれさんが一人になっちゃうから、話し相手になってあげてくださいって……。あの、お邪魔じゃなかったですか?」
「ええ、もちろん! 私はすごく嬉しいです。でも、コウさんはお仕事の編集でお忙しいんじゃ……」
「……『嬉しい』。……いや、待て、これは大人の社交辞令だ。落ち着け俺……ブツブツ、ブツブツ……」
「え? ……さ、コウさん? 大丈夫ですか? やっぱり、連日の編集続きでお疲れなんじゃあ……」
「いえ! 全く問題ないです! お邪魔します!」
突然きびきびとした動きで個室へ入ってきたコウさんに瞬きを返しつつも、それからナナちゃんが戻ってくるまでの三十分ほどの時間、私たちは狭山さんのインドでの生活や失敗談について、当たり障りのない雑談を交わして過ごした。画面の向こうの賑やかな彼とは違う、少し照れくさそうな素のトーンがなんだか新鮮だった。
コウさんは部屋に入ってきたときから、両手に大きな袋を抱えていた。
今夜の夕飯にと、列車が動き出す直前にホームの売店を回り、三人分の「駅弁」とミネラルウォーター、スナック菓子を素早く買い求めておいてくれたらしい。狭い個室のなか、袋からは食欲をそそるスパイシーな香りがほんのりと漂い始めていた。
しばらくして、車内撮影を終えたナナちゃんが、笑顔でお菓子を片手に戻ってきた。
「ただいまです! すごく面白かったですよ! 向こうは、二段ベッドと三段ベッドで、クーラーのない車両もありました。トイレは洋式と、和式っぽいタイプがありましたよ。乗客のみなさん本当に親切でフレンドリーで、なんとこれ、もらっちゃいました!」
ローカルなポテトチップスと思われる袋菓子を片手で振り、楽しそうに話す彼女の様子からは、きっと大満足の撮れ高があったことが窺える。しかし、その袋に視線を落としたコウさんの表情が、ふっと真面目なものに変わった。
「ああ。そのお菓子、まあ、基本的には大丈夫だろうとは思うけど……。ただ、旅の安全面から言わせてもらうと、乗り物のなかで知らない相手から貰った食べ物は、絶対に口にしない方がいい」
「え……?」
「昏睡強盗の危険性もあるからね。相手の善意を無にするようで申し訳ないけど、今後はどれだけ親切にされても、出来るだけ受け取らない方向で対応するべきだよ。これは鉄則だ」
コウさんが淡々と言葉を紡ぐにつれ、ナナちゃんの明るかった笑顔がみるみる引き攣っていく。せっかくの楽しい思い出に冷水を浴びせられたような空気に、コウさんもハッとしたように視線を揺らした。
「悪い。別に、楽しい旅に水をさす気はないんだ。ただ、一応、俺からの防犯上の注意だ。……旅慣れているナナちゃんなら、本当は百も承知だろうけどね」
コウさんの少し申し訳なさそうな補足を聞いて、ナナちゃんはふう、と小さく息を吐き出した。
「はい。わかってます。そういう言いにくい注意を、ちゃんと言わせちゃってすみません。……でも、コウさんのど正論の注意、なんかムカつきますー!」
ぷくっと頬を膨らませてみせるナナちゃんを見て、私と狭山さんの緊張の糸がふっと解けた。
きっとナナちゃんは、さっきお菓子をくれた現地の方の温かい笑顔を思い浮かべてしまったのだろう。少しだけ寂しそうな顔をしたあと、すぐに場の空気を読んで笑いに変えてくれたのだと、私にもコウさんにもよく分かった。
「よし、それじゃあ気を取り直して、コウさんが買ってきてくれた駅弁をいただきましょうか。お腹も空いてきたしね」
私がそう言って促すと、コウさんが大きな袋から、楽しみにしていたインドの「駅弁」を取り出し、私たちの分の容器を手渡してくれた。
「わあ、駅弁もカレーですよ! さっそくいただきましょう!」
膝の上に広げた容器を見て、ナナちゃんが感嘆の声をあげる。
見れば、確かに中身はカレーだった。アルミ素材の銀色の長方形の大きめな容器に、三種類の異なるカレーと、ポテトやサブジのような副菜、そしてパラパラとしたバスマティライスに、綺麗に折り畳まれたロティが収まっている。
「まあ、普通に美味しそうね。日本の駅弁というよりも、普通にレストランでテイクアウトしたメニューのようですね」
「ああ、そうだね。この長距離路線の時間帯は、乗客もみんな駅弁を買うしかないから、とにかくよく売れるんだよ。まあ、味も本格的だよ」
「わーい!さっそくいただきましょう!」
三人でプラスチックのスプーンを手に取り、贅沢な駅弁に舌鼓を打つ。スパイシーな香りが狭い個室に心地よく満ちていく。
「それにしても、やっぱりコウさんがいてくれて、今の私たちには鬼に金棒ですね。『女性だけのインド旅はとにかく注意するように』って情報がネットに溢れていて、個室は予約したものの、実は少し心配だったんですよ」
ロティにカレーを絡めながら、ナナちゃんがぽつりと言った。
「ああ、確かにそうだね。客室自体は内側から施錠できても、トイレに立つときなんかは室外に出るわけだし。どれだけ上のクラスの車両でも、やっぱり注意は必要だからね」
「はい。ネットを見てると、楽しい出会いのエピソードもあれば、怖い経験をしたっていう投稿もたくさんされていて……来る前はちょっとナーバスになっちゃってました」
ナナちゃんがコウさんに明かした本音に、私は内心、小さく驚いていた。
すでにYouTuberとしての活動経験を持っていて、私から見ればどこまでも旅慣れて、肝が据わっているように見えたナナちゃん。けれど、そんな彼女でも、見えないところで色々と気を遣い、不安を抱えながらこの旅を引っ張ってくれていたのだ。そう思うと、年上でありながら頼りきりだった自分に対して、なんだか申し訳ない気持ちが込み上げてくる。
「ああ、その気持ちはすごくよくわかるよ」
コウさんは静かに頷き、配信者としての真剣な眼差しをナナちゃんに向けた。
「旅先で万が一にでも事件の当事者になっちゃうとさ、世間からは同情と同じくらいに、手厳しいアンチコメントも集まるからね。今の時代、世間の批判の矛先は、なぜか被害者側にも及んだりするから……」
コウさんとナナちゃん。二人の「配信者」という立場だからこそ抱く、リスクへの危機感と、特有の思いがあるのだろう。
私には計り知れない世界の重圧が察せられて、私はただ黙って、じんわりと辛いカレーを口へと運んだ。
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