第76話 動き出す寝台列車と、三人旅の始まり
コウさんのまさかの「ジャイプール同行宣言」という大急ぎの予定変更を経て、私とナナちゃんは手配した配車アプリ『Uber』の車に乗り込み、一度滞在先のホテルへと戻った。
ホテルの部屋は夕方の十六時頃まで使えるよう、あらかじめレイトチェックアウトの手続きを済ませておいた。フロントで宿泊料金の50%にあたる追加料金を支払う。日本円にすればほんの数千円の出費だが、出発直前まで涼しい部屋で荷物を整理し、シャワーを浴びて身支度を整える安心と時間を買えたのだから安いものだ。
コウさんとは、出発地点となる駅で直接合流することになっている。
「本当にコウさんが一緒に来てくれるなんて! 憧れだったトップYouTuberと旅できるなんて、夢みたいです……!」
部屋で荷物をまとめながら、ナナちゃんはまだ興奮冷めやらぬ様子で頬を紅潮させている。私はそんな彼女に苦笑しつつも、見知らぬ異国の夜行列車に女性二人きりで乗る不安が消え去ったことに、密かに深く安堵していた。
実を言うと、出発の直前に部屋でちょっとした一騒ぎがあった。
ベッドメイクのスタッフに向けた、旅行のエチケットである『ピローチップ』を、ナナちゃんが滞年中毎日、私の分までそっと置いてくれていたことが判明したのだ。
今回、安宿のカプセルホテルばかりを利用していた私の頭の中からは、そのあたりのマナーがすっぽりと抜け落ちていた。自分の情けなさに大いに焦り、「言ってくれれば良かったのに」と小さくなって財布を出そうとする私に、ナナちゃんはいつもの眩しい笑顔を向けた。
「いいんですよ、私が誘った旅ですし! それに、もし私の一人旅だったとしてもチップの額は一緒ですから、気にしないでください!」
そう言って笑ってくれたけれど、スマートな気遣いができる彼女に、年上のはずの私は甘えっぱなしだ。今回の宿泊代の精算も含めて、ナナちゃんから受けたたくさんの恩は、この旅の間、あるいはいずれ日本に帰ってからでも、絶対にきちんと返さねばと心に強く誓った。
十六時ちょうど、お世話になったホテルの部屋を後にする。
再びUberを呼び、いよいよ旅の出発点となる『Mumbai Central railway station ムンバイ・セントラル駅』へと向かった。
検索画面では、ホテルから駅までは「十五分ほどで到着」と表示されている。しかし、そこは一筋縄ではいかないインドの交通事情だ。
車が出発した途端、お馴染みとなった渋滞に巻き込まれた。前後左右を車とオートリキシャに囲まれ、けたたましいクラクションの嵐に揉まれること約三十分。予定の倍以上の時間をかけて、ようやく車はムンバイ・セントラル駅の前へと滑り込んだ。
「「サンキュー!」」
ドライバーにお礼を言って車を降りた瞬間、目の前に広がった光景に思わず息を呑む。
とにかく、圧倒されるほどの人、人、人。
これから遠方へと旅立つ旅行者なのか、あるいは駅構内で強かに商売を営む現地の人々なのか。老若男女が入り乱れるその空間は、熱を孕んだ凄まじい活気に満ちあふれていた。
「すみれさん、ナナちゃん! こっちこっち!」
人混みに気圧されそうになっていると、人波の向こうから、すっきりと旅の身支度を整えたコウさんが大きく手を振って駆け寄ってきてくれた。旅系YouTuberとしてのフットワークの軽さは伊達ではない。その頼もしい姿に、私とナナちゃんの顔に自然と笑顔が浮かぶ。
私たちが乗車するのは、毎日運行されている長距離寝台列車、『ジャイプール行き 12955 Mumbai Central – Jaipur Superfast Express』。
ムンバイ・セントラル駅を十九時五分頃に出発し、目的地であるピンクシティと呼ばれるジャイプールには翌日の正午頃に到着する、約十六時間55分の長旅だ。
「インドの長距離夜行寝台には、近郊列車みたいな女性専用車両がないんだ。だから、今回は本当に大正解だよ。僕がボディーガードとしてついてるからね」
コウさんはそう言ってウインクしながら、私たちのチケットを確認してくれた。
私とナナちゃんがあらかじめ予約していたのは、この列車で最高ランクにあたる『1等エアコン寝台(First AC、通称1A)』。
なかでも、二人用個室である『Coupe クーペ』と呼ばれるタイプの部屋だ。上下二段のベッドが備え付けられたコンパクトな空間で、内側からしっかりとドアを閉めて鍵を掛けられる仕様になっている。女性二人旅の身にとっては、文字通り鉄壁のセーフティエリアだった。
ちなみに、狭山さんは私たちの予約に合わせて、同じ1等AC(1A)クラスの、Cabin 四人用個室の方に滑り込みでチケットを確保してくれたらしい。
気になる1Aクラスの料金は、日本円にして約五千八百円から六千円程度(約3,420ルピー)。
今回の旅の物価の目安として、ミネラルウォーターが一本20〜50ルピー(約35〜85円)、甘いチャイが一杯20〜40ルピー(約35〜70円)、少し綺麗なレストランでも300〜800ルピー(約500〜1,400円)で済むインドにおいて、一晩の移動に三千四百ルピー以上を投じるのはかなりの金額だ。けれど、日本で夜行寝台の完全個室を利用することを思えば破格の安さであり、何より「安全とプライバシーを買う」と思えば、大満足の選択だった。
コウさんのスマートな先導で改札を抜け、指定されたプラットホームへと進む。
入線してきた重厚な列車の車体を見上げながら、私たちは指定の車両へと足を踏み入れた。案内された二人用個室は清潔で、どこか秘密基地のような居心地の良さがあった。
「それじゃあ、俺の部屋はすぐ近くだから。何かあったらすぐに呼んでね。発車したら、お茶でも飲みながらこれからの作戦会議をしよう」
コウさんはそう言って一度自分の車両へと向かい、私とナナちゃんは重いバックパックを下ろした。
コンパートメントの頑丈なドアを閉めると、外の喧騒が嘘のように遠のいていく。
窓の外に視線をやると、相変わらず大勢の人々が行き交うホームが見える。私はバッグから、旅の相棒――『くまのスミレ』を取り出すと、電車の窓枠にそっと座らせ撮影した。
「わあ、可愛い! すみれさん、写真を撮ってもいいですか?」
ナナちゃんが嬉しそうにスマホを構え、レトロな駅の風景をバックに、『くまのスミレ』の写真をパシャリと撮影してくれた。
フィルターを調整し、私のInstagramのアカウントへとアップロードする。そこにお気に入りの『くまのスミレ』と異国の景色が並ぶ。かつてのように「誰かに合わせる自分」ではなく、自分の意志で新しい世界を歩んでいる、その確かな足跡の更新だった。公開日は旅の安全を考慮して一週間後に予約設定しておく。
まもなく、まるでこちらの勝手な先入観を小気味よく裏切るかのように、列車は定刻ぴったりにかすかな振動を立ててゆっくりと動き出した。
ガタゴトと規則正しい音を立てながら、ムンバイの喧騒を離れ、次に目的地へと進んでいく。窓から差し込む異国の夜景を眺めながら、私、ナナちゃん、そしてコウさんの、三人旅が静かに幕を開けた。
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