第75話 ◇ 初日を終えて、慎二との会話
帰宅した健一は、汗だくになったスーツを脱ぎ捨てると、買ってきたばかりのシャンプー類を抱えてバスルームへ直行した。
シャワーから出る冷たい水が、熱を帯びて火照った体をじんわりと冷ましていく。
ただじっと水流を浴びているうちに、ジャカルタの熱気にやられてぼんやりとしていた頭が、驚くほどスッキリと冴え渡っていくのを感じた。
集中力が増し、今日一日で仕入れた情報が脳内で急速に整理されていく。これからのプロジェクトのタイムスケジュール、今日挨拶を終えた現地スタッフたちの顔と名前、それぞれの役割、長としてチームを率いる田中部長から掛けられた言葉――。
それらがパズルのピースのようにはまっていき、営業マンとしての勘と、これから異国で戦うための実感が、確かな輪郭を持って健一の内に戻ってきていた。
さっぱりとした体でリビングのソファに座り込んだ。一人では広すぎるダイニングテーブルを、わざわざ使う気にはなれなかった。
ローテーブルに広げたのは、フードコートでテイクアウトしてきた『Ayam Bakar アヤム・バカール』。炭火の香ばしさが漂うインドネシア風の甘辛グリルチキンだ。添えられたジャスミンライスは日本の短粒種のようにモチモチとした甘みはなく、パラパラとしていて独特の軽やかな香りがある。だが、このスパイシーなタレには実によく合った。
食事を終え、広げっぱなしになっていたスーツケースから、とりあえず数日分の洋服類をクローゼットへと整理する。あらかじめ日本から送っておいた段ボールの山は、必要なものをいくつか引っ張り出しただけで、ガムテープを剥がしたまま放置した。これらは週末にでも、ゆっくり取り掛かればいい。
壁の時計を見ると、現地の時刻は夜の七時半を回っていた。日本はここより二時間進んでいるから、あちらは九時半。そろそろ弟の慎二が仕事を終えて帰宅した頃だろうかと思い、ノートPCを開いてZoom通話を呼び出してみる。
数回のコールの後、電子音が切れて映像が繋がった。画面の向こうには、自室のソファでコンビニ弁当をがっついている慎二の、いつもと変わらない呑気な顔が映し出された。
――その瞬間、健一の胸の奥に、不意に強烈な安堵感が押し寄せた。
自分は一人じゃない。この世界に、まだ自分をそのまま受け入れてくれる身内がいる。そう思っただけで、不意に喉の奥がグッと詰まるような感覚に襲われた。
『あ、アニキ! どうよ、そっちはやっぱり暑い?』
唐揚げを咀嚼しながら放たれた、第一声がそれかと、健一の強張っていた顔が自然と緩む。
「ああ、めちゃくちゃ暑いよ。今日は初日だからきっちりスーツを着て行ったんだけどさ、汗だくになって最悪だった」
日本にいた頃なら、格好をつけて決して口にしなかったような軽い愚痴が、自然と口をついて出た。
『へえ。東南アジアでもスーツで仕事するんだ? イメージだと、みんな半袖シャツにショートパンツでゆるくやってるのかと思ってたよ』
「いや、オフィスは冷房が効いてるからな。屋外に長く出なきゃスーツでも大丈夫なんだろうけど……今日は色々歩かされたから」
『なーるほどねー。で、食べ物はどう? アニキ、昔からエスニック料理とか嫌いじゃん』
「それがさ……昼にナシゴレンを食べて、夜はアヤム・バカールっていう焼き鳥みたいなグリルチキンを買ってきたんだけど、意外と美味いんだよ。ただの食わず嫌いだったのか、昔日本で食べたアジア料理の店がたまたま合わなかっただけかもしれないな」
『へえー、美味いんだ! なーんだ、それなら、すみれさんと一緒に食べられ……あっ、ごめん! なんでもない!』
勢いで口を滑らせた慎二が、画面の向こうで目に見えて慌てて手を振っている。
「……あー、別にいいよ。そんなに気を使うな。そうだな、すみれはエスニック料理、本当に好きだったもんな」
『……うん。まあ、ね。本当に好きだったよね、エスニック料理。アニキが苦手だったから、いつも外での食事の時はイタリアンとか和食ばっかり選んでくれてたけどさ。……今思えば、アニキがそっちの料理を克服できたなら、三人でタイ料理とか食べに行けたね』
慎二の何気ない言葉が、健一の胸に深く、冷たく突き刺さる。
――いつも、すみれが自分に合わせてくれていたのだ。彼女が笑顔で「イタリアンにしよっか」と言ってくれていたあの時間の裏に、どれだけの小さな妥協の蓄積と、健一への健気な配慮があったのだろう。自分の視野の狭さが、彼女の「好き」を一つ奪っていたのだと、今になって知る。
「……そうだな。本当に……そうだな」
掠れた声で呟く健一に、慎二はそれ以上過去を穿り返すことはせず、その後は三十分ほど他愛のない世間話に付き合ってくれた。最後は「体調にだけは気をつけろよ」としつこいくらい心配されて、通話は終了した。
画面が暗くなると、部屋の中は一瞬で静寂に包まれた。
ブーンという冷房の低い作動音と、時折、階下の通りから響くクラクションらしき小さな音以外、何も聞こえない。
あまりの静けさに耐えかねて、とりあえず音が恋しくてテレビのリモコンを押した。
画面の中では、インドネシア人らしい快活な男性司会者が、きらびやかなドレスを着た女性シンガーを紹介していた。やがて、見知らぬ言語のポップスが流れ始める。
歌詞の意味は一言も分からない。けれど、その優しく伸びやかな歌声は、人恋しい健一の耳にどこか心地よく響いた。
「インドネシア語……か。少し、本腰を入れて覚えてみるかな。……Zoomがあって助かったな」
ぽつりと呟いた独り言は、誰に届くこともなく、異国の広い夜のしじまに溶けて消えていった。
その夜も、ベッドに入った健一が最初にしたのは、スマホを取り出してすみれのInstagramを開くことだった。マレーシアでの彼女の投稿の数々。画面をスクロールしながら、愛おしいその笑顔を見つめる。
画面に並ぶのは、ここ最近もこまめに更新されている、彼女の新しい投稿の数々。
お気に入りの小さなテディベアを添えて写された、マレーシアの美しい観光地や街並みの写真。そこに健一の知らない彼女の「今」の充実した生活が透けて見えて、胸がキリキリと締め付けられるように痛んだ。
自分の浮気が原因で、彼女の心をあれほど無残に傷つけ、完全に愛想を尽かされて捨てられたのだ。すべては自業自得、自分が犯した裏切りの報いだと分かっていても、どうしても未練を断ち切ることができない。
自分を切り捨てて前を向いている彼女の幸福を、どの面を下げて願えばいいのか。そんな自己嫌悪に苛まれながらも、健一は逃げるように目を閉じた。
たとえ夢の中でもいい。もう一度だけ、あの頃の彼女に会えることを願いながら、意識は深い眠りの中へと沈んでいった。
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