第74話 ◇ 日用品の買い出しと、気遣いの心
赴任初日は、挨拶回りならぬ慌ただしい「顔見せ」だけで一日がかりの行程を終えた。
「今日は一日中オフィス内を連れ回されて、クタクタに疲れれたんじゃないですか? 本当にお疲れ様でした!」
駐車場へ向かうエレベーターの中で、富永が労いの言葉をかけてくれた。それが同行案内という業務上の社交辞令だと分かっていても、今の健一の心には深く沁みた。
容赦のない暑さ、飛び交うインドネシア語であろう異国の言語、傷を抱えたままの気疲れ。さすがの健一も、日本で「鉄壁」と謳われた営業スマイルの口元が引き攣るのを止められなかった。
K◯SHIYAMAのセミオーダースーツは容赦のない汗を吸ってずっしりと重く、中のワイシャツはベッタリと肌にまとわりついている。かつて、すみれが「すごく似合っている」と微笑んでくれた、自分の体型に合わせて仕立てた上質な一着。それが異国の熱気と汗に無残に湿っていく現実が、今の自分の境遇をそのまま表しているようで、健一は小さく息を吐き出した。
「お気遣いありがとうございます。富永さんこそ、ご自身の通常業務とは違う案内役で大変だったでしょう。ご迷惑をおかけすると思いますが、今週一週間、よろしくお願いします」
「いえいえ、お安い御用です! ……あ、このまま自宅に戻る予定ですが、どこか立ち寄りたい場所はありますか? これからはアブドゥルさんに直接行き先を言えば、いつでも連れて行ってもらえますよ」
「そうですね……。できれば日用品を買い込みたいのですが、どこかおすすめの店はありますか? こだわりはないので、まずは洗濯用洗剤やシャンプーのような消耗品を揃えたくて」
「ああ、それなら大型スーパーに寄りましょうか。あそこなら日用品から食材まで、おおかた何でも揃いますよ」
「助かります。では、そちらに寄ってもらえますか? あと、ついでに今日の夕飯も何か買って帰りたいなと」
「じゃあ、スーパーに併設されているフードコートで、また何かテイクアウトしましょうか」
「そうしていただければありがたいです。……あ、その場合、私たちが買い物している間、アブドゥルさんはどうされるんですか?」
ふと気になって健一が尋ねると、富永はあっさりと笑った。
「ああ、アブドゥルさんは駐車スペースで待機してくれていますよ。それも含めての専属契約ですから、そこはあまり気にしなくて大丈夫です。まあ、他の駐在員の方は、何かの折にちょっとした贈り物やチップを渡して人間関係を円滑にしているみたいですけどね」
送迎車に乗り込み、案内された大型スーパーへと移動する。
車が走り出すと、夕方のジャカルタの街並みが広がっていた。真新しい超高層ビルのすぐ足元に、信じられないほど老朽化した平屋の商店も目に入る。名物の渋滞の中で、どこまでも続くテールランプの赤い列を眺めながら、健一は富永の言葉を思い出していた。
(――何かの折にちょっとした贈り物やチップを……か)
富永をこれ以上付き合わせる申し訳なさと、車内で待つアブドゥルへの気遣いもあり、健一は細かく吟味して悩むのをやめた。棚に並ぶ見たこともない海外製のパッケージの中から、富永の意見を参考にして目についた洗濯用洗剤や生活備品を手当たり次第にカートへと放り込んでいく。
広い店内を早足で回り、大人の男二人で両手いっぱいになるほどの日用品を買い漁った。おかげで、当面の生活を立ち上げるために必要な備品は、一通り揃えることができた。
買い物を終えてフードコートへ向かい、夕食のテイクアウトを物色する。富永も自分の分の夕食を調達するようだったので、健一は一日付き合ってくれた礼を兼ねて「二人分、まとめて僕に支払わせてください」と申し出た。しかし、富永は困ったように、けれど丁重にそれを遠慮した。
「いやあ、お気持ちだけいただきます。今は大丈夫ですよ。佐藤さんがこちらの生活に慣れたら、その時はゆっくり美味いものでも奢ってください。それまでは遠慮しておきます」
おもねる風でもなく、サッパリとしたその引き際。健一の中で、富永に対する好感度が明確に上昇していくのを感じた。
――現地採用。
日本の本社から派遣されてきた自分たち駐在員とは違い、自らの意志でこの国に渡り、枠組みの外で雇用されている男。彼は一体、どんな目的があってこのジャカルタで暮らしているのだろうか。
流れる無機質な夜景を窓越しに見つめながら、健一は隣に座る風変わりな案内役へ、かすかな興味を抱き始めていた。
夕飯をテイクアウトし、車へと乗り込んだ健一は、ビジネスマンとしてのアンテナを働かせ、バックミラー越しにアブドゥルさんへ声をかけた。
「アブドゥルさん、夜遅くにスーパーまで回らせてしまってすみません。いつもこれくらい遅くなることもあるんですか?」
「いえいえ、サトウさん! ダイジョウブです。前任の駐在員の方も、奥さんの買い物で夜遅くなること、よくありました。私は待つの、仕事ですから気にしないでください」
アブドゥルさんは白い歯を覗かせて笑った。前任者には家族がいたという話は聞いていたが、こうして現地のスタッフの口から「奥さん」というワードが出ると、やはり胸の奥がチクリと痛む。自分も、過ちを犯さなければ、すみれと一緒にこの車に乗っていたはずなのだ……。
「……そうですか。今日は遅くまで運転をありがとうございます。これ、先ほどのスーパーで慌てて買ったものなので大したものではないんですが、ほんの気持ちです。よかったらご家族で食べてください」
健一は、カートへ手当たり次第に放り込んだ日用品の中に紛れ込ませておいた、現地製のクッキーの箱を取り出し、助手席の富永に託した。日本から持参した本命のお土産は、明日の朝、改めてきちんと手渡すつもりだ。
「おぉ! 子供たちが喜びます。サトウさん、本当にありがとうございます」
アブドゥルさんはバックミラー越しに本当に嬉しそうな声を上げた。その様子を見ていた富永が、感心したように笑みを浮かべた。
「いやあ、佐藤さん、さすがですね。初日からドライバーの心を掴むなんて。アブドゥルさん、これで明日からさらに張り切ってスピード出して渋滞抜けてくれますよ」
「はは、安全運転の範囲内でお願いしたいですけどね」
富永の冗談に小さく笑いながらも、健一は、自分の配慮が現地採用の彼にも認められたような気がして、ほんの少しだけ張り詰めていた心が軽くなるのを感じていた。
――それと同時に、胸の奥から淡い郷愁がせり上がってくる。
日本にいた頃、プロジェクトの節目や、お世話になった部下、後輩の誕生日に、「これ、皆でどうぞ」「お疲れ様」と、いつも押し付けがましくない絶妙なセンスの贈り物や差し入れを用意してくれていたのは、すみれだった。
『男の人はこういうの、照れくさくて忘れがちだから。健一の代わりに、私が点数稼ぎのお手伝いよ』
そう言って悪戯っぽく笑っていた彼女の、細やかで温かい気遣い。あの頃は出世コースの主任としての自分の手柄のように錯覚していた周囲との円滑な関係も、すべては彼女が裏で支えてくれていたからこそだったのだと、異国の車内で今さら思い知らされる。
富永に手渡したクッキーの箱を思いながら、健一は声にならない自嘲を漏らした。
(俺のこういう『配慮』も……全部、お前から教わったことばかりだな、すみれ)
車はそんな健一の消えない未練を乗せて、ショッピングモールの眩い明かりを背に、これからの生活の舞台となる高層コンドミニアムが待つ、夜道へと滑り込んでいった。
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