第73話 ◇ ナシゴレンの熱と未練
「失礼します。田中建築部長、日本から到着された佐藤さんをお連れしました」
「入ってくれ」
中から響いた低く通る声に応えて部屋に入ると、大きなデスクの向こうに、四十代後半ほどの恰幅のいい男性が座っていた。
事前に本社の社員名簿で確認していた、ジャカルタ現地法人建築部長の田中だ。
日本で主任だった頃の健一の直属の上司――つまり本社の小野田係長からは、「現地法人の田中部長はかなりのやり手の切れ者だが、信賞必罰がハッキリしていて、筋の通った信頼できる人物だ」と聞かされていた。
健一は手元で一度深く呼吸を整えると、日本で培ってきた優秀な主任としての顔にスッと切り替え、田中の前に進み出た。
「まあ、今週は焦らず生活拠点を整えてくれ」
田中部長は恰幅のいい身体を揺らし、健一を値踏みするような、しかし温かみのある目で言った。
「案内役の富永君は、現地採用だがインドネシア語にも堪能で、実に優秀な男だ。分からないことがあれば何でも彼に尋ねればいい。幸い、住んでいるコンドミニアムも一緒だろう?」
「はい。色々とサポートしていただき、本当に助かっています」
健一が頭を下げると、田中部長は「頼んだよ」と富永にも視線を送った。
一通り部長への挨拶を終えた後、健一はこれから共に働く部署の現地スタッフたちにも顔見せを行い、社内の主要な施設を案内された。時計の針が十二時近くを指した頃、富永が親しみやすい笑顔を向けた。
「佐藤さん、もうお昼時ですし、ひとまずランチタイムに出ましょうか!」
「いいですね。皆さん、お昼は外に出るのが普通なんですか? 社食のような施設は……?」
「ああ、うちのオフィスには社食はないんですよ。日本と違って、こっちはだいたいみんな外に出ますね。安くて美味いローカルの店がたくさんありますから」
「外、ですか……」
健一は、先ほど車中で富永から「歩くのは治安の面からもお勧めできない」と言われたばかりだったことを思い出し、少し身構えた。
「周辺の治安の心配はないんですか?」
「ハハ、大丈夫ですよ! オフィスビルのすぐ近くに小さなショッピングセンターがありまして、そこのフードコートに行くんです。そこならセキュリティもしっかりしていますし、他社の駐在員もみんな使っていますから」
「なるほど、それなら安心ですね」
二人は連れ立って社屋を出た。ビルの敷地から直結しているアーケードを通り、じっとりとした熱気の中を五分ほど歩くと、お目当てのショッピングセンターへと到着した。
お昼時のフードコート内は活気に満ちており、周囲を見渡すと、近隣のオフィスから来たと思われる駐在員らしきシャツ姿の会社員が数多く見受けられた。
「佐藤さんは、エスニック料理はお好きですか?」
空いている席を探しながら、富永が尋ねてくる。
「……あ。実は、辛い食べ物があんまり得意ではなくて。食わず嫌いかもしれないんですが、昔初めて食べたタイ料理の匂いと癖がすごくて……。それ以来、エスニック系の料理はあんまり食べてこなかったんです」
「そうですか~。じゃあ、どうしようかな。中華系のお店もありますけど……。そうだ、それなら『Nasi Goreng ナシゴレン』はどうでしょう? Nasiは米、Grengは揚げた、という意味で、インドネシア風の焼き飯なんですけど、目玉焼きが乗っているのが定番で、日本人の口にもすごく合うので食べやすいんじゃないでしょうか」
「焼き飯なら、大丈夫そうですね。できることなら現地の食事は好きになりたいですし、挑戦してみます」
「はい! それじゃあ今日はナシゴレンを試しましょう!」
健一は富永の後ろについていき、注文のシステムを学んだ。日本のフードコートと何ら変わらず、カウンターで注文を済ませると電子ブザーの端末を渡される。準備ができたら音が鳴るので、自分で受け取りに行く仕組みのようだ。
さほど待つこともなくブザーが鳴り、健一は『ナシゴレン』を受け取って、一緒に買い求めた水のボトルを手に席へと着いた。
運んできた皿からは、ホカホカと湯気が立ち上り、絶妙な焼き加減の目玉焼きが乗っている。周囲には、どこかスパイシーで甘やかなエスニックの香りが漂っていた。
富永も同じものを注文し、彼は追加の辛いソース、『スリラチャソース Sriracha sauce』を小さなカップに入れていた。
「あ、佐藤さん。もし少しだけ辛味を足してみたくなったら、このソースをちょっとだけつけてみてください」
富永がテーブルの端に置かれていた、鮮やかな赤色のボトルを指さした。
「これ、世界中で大人気の辛いソースなんですよ。もともとはタイの発祥のチリソースで、ニンニクと唐辛子をベースにした調味料なんです。辛いだけじゃなくて旨味が強くて、こっちでは焼きそばでも、フライドチキンでも、何にでも合わせてみんなドバドバかけてます。ナシゴレンの味変にも最高ですよ」
「へえ、世界中で……」
辛いものが苦手なはずの健一だったが、富永の熱のこもった説明を聞いているうちに、不思議と好奇心が湧いてきた。スプーンの端にほんの数滴だけその赤いソースを落とし、ナシゴレンに混ぜて恐る恐る口に運んでみる。
「――あ、本当だ。ピリッとくるけど、ニンニクのコクがあってジャンキーで美味いですね」
「でしょう! いやあ、佐藤さんは食のセンスがありますね!」
――ふと、すみれの顔が頭をよぎる。
本来、エスニック料理や辛いものが好きだった彼女なら、この賑やかなフードコートをどんなに喜んだだろう。この料理を前にしたら、きっと、少し俯きがちに口角を上げて、嬉しそうに笑うのではないだろうか……。
そんな叶わない妄想が、不意に胸を締め付ける。
「どうかしましたか? もしかして、やっぱり辛いのはダメでした?」
富永の心配そうな声に、健一はハッと我に返った。
「あ、いえ! 大丈夫です。ちょっと考え事をしていただけですから。すいません、すごく美味しそうです。いただきましょう」
スプーンを取り、小さく一口分を口に運ぶ。
身構えていた健一は、辛さが控えめなことにまずはホッとした。日本のチャーハンとは違う、これまで避けてきた未知の香りが鼻の奥で優しく広がる。独特の甘みとコク、そして程よいピリッとした辛味が絶妙にマッチしており、目玉焼きの黄身を崩すとさらにまろやかさが増した。
「どうですか? 食べられそうですか?」
富永が覗き込んでくる。
「はい。すごく食べやすいです。何より、本当に美味しいですね。今まで何をそんなに苦手に感じていたんだろうって不思議なくらい、するすると食べられます」
「お、本当ですか! それは良かったです。海外赴任中に現地の食事が合わないのが一番キツいですからね。佐藤さんなら、これからのジャカルタ生活もバッチリ馴染めそうですよ!」
富永は自分のことのように嬉しそうに笑い、自分の分の料理を豪快に頬張り始めた。
健一はもう一度ナシゴレンを口に運びながら、心の中で小さく呟いていた。
(すみれ、俺、現地の料理を食べられたよ……。お前がいたら、きっと褒めてくれたのかな……)
喉を通る温かい食事の味が、健一の孤独な胸にじんわりとしみ込んでいった。
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