第72話 ◇ ジャカルタ、初めての朝
シャワーを浴びて鏡の前に立つ。一時はあんなに酷かった背中の蕁麻疹が、今はすっきりと綺麗に引いていた。やはり、日本でのあの婚約破棄と諸々の事後処理、医師の診断通り過度のストレスによる一過性のものだったのだろう。
あれほど鮮明だった蕁麻疹が消えて肌は綺麗に治ったというのに、健一の胸には皮肉にも、すみれを深く傷つけたという罪悪感だけが鮮明に残った。
昨日買っておいた水と、バターロールのようなごく普通のパンを口に押し込む。空腹を満たすためというよりは、異国で体調を崩さぬように最低限のカロリーを摂るだけの作業だった。大きなダイニングテーブルに一人ぽつんと座る気にもならず、リビングのソファに腰掛け、スマホでジャカルタの英字オンラインニュースサイトをチェックしてから、まだ少し重い気がする体を引きずって身支度を整える。
現地の気候にはそぐわないと分かっていても、日本と同じようにきっちりとスーツを着込んだ。かつて、すみれが好きだと言ってくれた自分のスーツ姿だけは、ここでも手放したくなかったのだ。
午前十時ちょうどになると、部屋のインターホンが鳴った。モニターで相手を確認し、ドアを開ける。そこに立っていた富永は、ポロシャツにショートパンツという驚くほどの軽装だった。
「あっ、佐藤さん、おはようございます! 少しは眠れましたか?」
富永は、深夜に別れた時と全く変わらない高いテンションで朝の挨拶を交わしてきた。根っから明るいキャラクターなのだろう。今後の付き合いを思うと、健一は少しだけ気が楽になるのを感じた。
「はい、お陰様で。昨夜は深夜遅くまでお付き合いくださって、本当にすみませんでした。富永さん、本来の業務は大丈夫なんですか?」
「はい、全くお気遣いなく! 僕の業務は、佐藤さんを会社に案内することと、来週からの仕事始めに向けて、今週いっぱいで生活基盤を整えるお手伝いをすることにありますから。気にしないで、なんでも気になることは質問してくださいね! ……あ、でも佐藤さん、初日からそんなにキチッとスーツ着てたら、ジャカルタの暑さで一発でやられちゃいますよ?」
富永が苦笑しながら健一のネクタイに視線をやる。健一は少し気恥ずかしくなり、自嘲気味に笑った。
「……そうですね。一応、初日なので身だしなみだけでも、と思って。お言葉に甘えて、しばらくお世話になります。よろしくお願いします」
一歩外へ出ると、まだ午前十時だというのに、気温はすでに三十度を超えており、ねっとりとした高い湿度が肌にまとわりついてくる。ジャカルタの乾季は五月から始まっているそうだが、屋外を歩くには熱中症が心配なレベルだ。一瞬で吹き出す汗を感じながら、健一は富永の後ろをついてエントランスに停車された社用車へと向かった。
車に乗り込むと、富永が手際よく運転席の男性を紹介してくれた。
「こちら、専属ドライバーのアブドゥルさんです。日本語を少し話されるので、簡単な行き先のやり取りなら問題ないと思います。細かい指示は翻訳アプリを使ってみてください」
健一は背筋を伸ばし、事前に暗記しておいたフレーズを口にした。
「"Perkenalkan, saya Sato. Mulai sekarang saya akan berhubungan dengan Anda setiap hari. Mohon bimbingannya dan kerja samanya."
(佐藤です。これから毎日お世話になります。よろしくお願いします)」
「おぉ、サトウさん! 丁寧なインドネシア語をありがとう。こちらこそ、よろしくお願いします!」
アブドゥルさんはバックミラー越しに、驚くほど嬉しそうな破顔を見せ、日本語で挨拶を返してくれた。その温かい反応に、健一の強張っていた肩の力が少しだけ抜ける。
「あれ? 佐藤さんはインドネシア語を話されるんですか?」
富永が助手席から振り返り、目を丸くしている。
「いや……初対面の挨拶くらいは現地の言葉でと思って、このフレーズだけ丸暗記しました。あとは単語を少しずつ学習中です」
「うわぁ、立派ですね! だいたいの駐在員の方はアシスタントに日本語で指示を出すか、英語で押し通しちゃいますよ。インドネシア語をわざわざ勉強する人は少ないんじゃないでしょうか」
「なるほど。現地のアシスタントの方は皆さん、日本語が堪能なんですか?」
「ええ。日系企業で働きたい現地の方はたくさんいますからね。みんな必死に勉強して、倍率を勝ち抜いて今のポジションにいる優秀な人材ばかりです。だから安心してください」
「優秀、ですか……」
富永の悪気ない言葉に、健一は別のプレッシャーを感じて小さく奥歯を噛み締めた。
本社では海外事業本部主任で、東南アジアの大型商業施設開発を担当し、同期に比べても優秀だと自負していた。今回のジャカルタ赴任も、前任者が急な体調不良を訴えたため、その窮地を救う交代要員として緊急の要請を受けてのものだ。実力が評価されたからこその大抜擢であるはずだった。
――だが、その裏には、すみれとの婚約破棄、そして職場内での派遣女子職員との噂が広がり、本社に居づらくなったという苦い一因もある。そうでなければ、辞令からわずか二ヶ月での赴任など前例がない。
どれだけ仕事で実績を残してここに乗り込んできても、自分の私生活の汚点は消えない。現地スタッフたちの無垢で優秀な目を前にしたら、まるで自分の化けの皮が剥がされそうな、奇妙な劣等感と後ろ暗さが込み上げてきた。
「佐藤さん? どうかしましたか?」
「いえ、なんでもありません。心強いスタッフがいるなら安心ですね」
健一は不安を誤魔化すように、気になっていた現実的な質問を口にした。
「富永さん、会社までは車でどれくらいですか?……」
「はい。スムーズにいけばだいたい三十分ほどですかね。ただ、ジャカルタはとにかく渋滞がひどいんですよ。ひどい時は一時間近くかかるなんてこともザラです。ですから、その渋滞を避けるために、毎朝七時半にはアブドゥルさんの迎えの車がコンドミニアムに来ますので、通勤はそちらを利用してください」
「毎朝七時半、ですか。結構早いですね」
「ええ。でも、日本との時差が二時間あってこっちの方が遅いので、日本との連携の都合もあります。夕方は一足早く十六時には帰れますよ! まあ、もちろん残業もあるかとは思うんですが、その時はアシスタントを通してアブドゥルさんに伝えてもらえれば、ちゃんと待っていてくれますから」
「なるほど、それは手厚いですね……。ちなみに、送迎車以外の交通手段はないんですか? たまには、一人で自由に帰宅したり、街を歩いたりしたいのですが」
どこか、自分の足で自由に動けていた日本での日常が恋しくなり、健一が尋ねる。しかし富永は、すぐに困ったような顔で首を横に振った。
「うーん、バスは一応ありますが、混雑と渋滞、あとは何より治安の面からも、駐在員の単独利用はあまりお勧めできませんね。歩くのも、歩道が整備されてなくて危ないですし」
「では、Uberなどの配車アプリはどうですか?」
「あ、Uberは数年前に東南アジアの業務を『Grab』へ売却しちゃったんですよ。だから今は、Grabか、あるいは『Gojek』というアプリが主流です。車だけじゃなくバイクタクシーも呼べますよ。生活が落ち着いたら、念のためにアプリをダウンロードしておいた方がいいと思います」
「そうですか……」
自分の意思で歩くことすら制限される異国の現実に、健一はめまいを覚えるような閉塞感を抱いた。守られているといえば聞こえはいいが、檻に入れられているのと変わらないではないか。
「まあ、しばらくは個人行動をする心の余裕もなさそうですしね。当面は富永さんとアブドゥルさんのお世話になろうと思います」
健一はそう言って力なく笑い、車窓を流れるジャカルタの街並みへと目を向けた。
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