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【片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜】  作者: 恋せよ恋
南インド編 カレーの香りと、パンジャビドレス

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第70話 コウのまさかの宣言

 一通り部屋を案内してもらったあと、私たちはリビングの大きなソファを勧められた。片山さんが手慣れた手つきで、キッチンから淹れ立てのコーヒーを運んできてくれる。


「あっ、そういえば事前に聞かなかったけど、二人ともコーヒーは大丈夫?」


「はい! 大好きです!」

「ええ、喜んでいただきます」


 温かいマグカップを手にソファへと深く腰を落ち着けると、ナナちゃんが昨日片山さんに話した、私とナナちゃんの出会いの経緯を、今度はコウさんに向けて語り始めた。


 コウさんは時折静かに頷きながら、ナナちゃんの熱のこもった話を真剣な表情で聞いてくれていた。画面のなかではあんなに賑やかに喋る人なのに、現実の彼は本当に驚くほどの「聞き上手」だ。こういう人が、人の心を惹きつけるんだろうな……そんなことを思いながら、私は静かに温かいコーヒーを口に運んだ。



「そういえばコウさん、なんでこんなに景色のいい場所なのに、あえて低層階のお部屋を選んだんですか? 高層階のほうが、もっと見晴らしが良さそうなのに」


 ひと段落したところで、ナナちゃんが素朴な疑問を口にした。


「ああ。もし何か火災みたいな非常事態が発生したときに、高層階だと逃げ遅れる危険があるからね。あと、インドの高層住宅は水圧の不安も残るしさ。これくらいの高さのほうが、庭の緑も間近に見えて住み心地がいいんだよ」


「なるほど、実用的ですね! じゃあ、実際に住んでみて、一番の問題点ってなんですか?」


 ナナちゃんの好奇心のアンテナは、止まることを知らないようだ。


「うーん、やっぱり水回りかな。日本の水回りって、配管の途中に臭いや虫の侵入を防ぐ『水トラップのU字管』が標準装備されているだろう? でも、インドの排水口って、そのままストレートに下水まで直通で繋がっていることが多いんだよ。だから、その隙間から下水の嫌な臭いや、ショウジョウバエみたいな謎の小さな虫が上がってきやすいのが一番の悩みどころかな」


「わあー……。臭いも虫も、それは絶対に勘弁してほしいですね」


 ナナちゃんが可愛い顔をしかめて本気で身震いする。


「あ、そうだ! コウさんにお会いするって分かってたら、日本から便利な防虫グッズとかの差し入れを持参できたのに……。すいません、これ、大したものではないんですけど、さっき下のプラザで購入したマフィンです! 編集作業の合間にでも、お二人でつまんでください」


 ナナちゃんから手渡された紙袋を受け取り、中を覗き込んだ狭山さんは、一瞬で顔を輝かせた。


「ああ! 歩いてるときから、ずっと大事そうに何を持ってるんだろうと思ってたんだ。悪いね、気を遣わせちゃって。おっ、そこのポワイ・プラザで買ってくれたんだね。ここのマフィン、現地でもめちゃくちゃ有名で美味いんだよ。せっかくだし、いまみんなで食べようか?」


「いいえ。私たちはさっきの中華でお腹がはち切れそうなので、今はもう無理です。お二人がお好きなときに、どうぞお気遣いなく召し上がってください」


 私が苦笑しながら手を振ると、すかさず片山さんが立ち上がった。


「それなら、ありがたく僕たちの夜食にさせてもらうよ。ありがとう、ナナちゃん、すみれさん」


 片山さんはマフィンの入ったボックスを、大切そうにキッチンのカウンターへと運んでいった。



「それで……二人は、この後の旅の行程はどうなってるの? いつまでムンバイにいて、次はどこを回る予定なの?」


 ソファに座るコウさんの問いに、ナナちゃんがスマホのスケジュール・アプリを確認しながら答える。


「実は、今晩の寝台列車でそのまま『ジャイプール』へ移動するんです! そこで有名なピンクシティをガンガン観光して、動画に収めてくる予定です」


「えっ……今晩、もう移動しちゃうの?」


 コウさんは目に見えてショックを受けたように声を落とした。



「じゃあ、出発前で色々と忙しかったんじゃないか。なんか、ごめんね。俺たちの都合で、貴重な時間を無理に誘っちゃって」


 片山さんが、黙り込んだコウさんを一瞥してから私たちに向けて気遣いの言葉をかけた。


「いえいえ、とんでもないです! 憧れのコウさんにお会いできて、私たちは本当に嬉しいんですよ! ね、すみれさん!」


「ええ、本当に。ランチまでご馳走になってしまって……。お二人のほうこそ、動画の編集作業でお忙しい時間だったんじゃありませんか? こちらこそ、お邪魔してしまって申し訳ありません」


 私が申し訳なさそうに微笑むと、コウさんはぶんぶんと激しく首を横に振った。


「……いや。全然、全く問題ないよ。動画の編集なんて、もう、だいたい、まあ……終わったようなものですから」


「おい、コウ」


 すぐに片山さんの地を這うような低い声が響いた。


「まだお前、直近の締め切りのやつが丸々一本分残っているだろうが。とうとう頭がイカれたのか?」


「うるせえな! 俺が終わったっつったら終わったんだよ!」


 親友に睨みを利かせた狭山さんは、ふっと真剣な表情に戻ると、信じられない言葉を口にした。


「……よし、俺もジャイプール行こうかな」


「「「えっ?」」」


 私とナナちゃん、そして片山さんの声が綺麗にハモった。



「いや、だってさ。インドの寝台列車なんて、女性二人きりじゃ絶対に心配だろう? 邪魔はしないから。俺なら何度も乗ってるし、現地の手配も慣れてるからさ、ただのボディーガード兼ガイドみたいなもんだよ」


「えっ、でも、コウさん……お仕事の編集が……」


 私は驚きのあまり、思わず片山さんのほうへと助けを求めるように視線を投げた。


「……コウ。お前、本気で言ってるのか?」


 片山さんは、親友の見たこともない猛烈な「バグりっぷり」に呆れ果てたように、しばらく天井を見上げていたが、やがて大きなため息をついた。



「……はぁ。わかったよ、やるよ。俺が残りの編集、全部巻き取ってやっとけばいいんだろ? その代わり、後で文句言うなよ。全修正とか絶対に許さんからな」


「持つべきものは最高の親友だな! さすが、片山CEO!」


 ゲンナリした様子の片山さんとは対照的に、コウさんは整った顔に魅力的な満面の笑顔を浮かべると、ものすごい速度でスマートフォンを操作し始めた。


 旅系YouTuberとしての恐るべきフットワークの軽さで、今夜のジャイプール行きのチケットと、私たちが滞在する予定のホテルと同じ場所の空室状況を、瞬く間に確認し始める。



「うわぁ……! コウさんが、私たちの旅についてきてくれるなんて、夢みたいです……!」


 ナナちゃんは、完全に憧れのスターを見つめるキラキラとした瞳で、その鮮やかな手並みを見つめていた。


 ――まさか、ここから三人旅が始まるなんて。


 急展開を迎えたムンバイの午後のリビングで、私はただただ、呆気にとられるしかなかった。


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