第68話 ポワイの風とバグり始めたトップYoutuber
大満足のランチを綺麗に平らげた私たちは、コウさんが暮らすコンドミニアムまで徒歩で向かうことにした。
レストランを出て驚いたのは、その周辺の景観の美しさだった。近くにあるポワイ湖の周辺は非常に緑が多く、広々とした歩道がどこまでも続いている。東京で例えるなら、綺麗に区画整理された豊洲などのウォーターフロントを歩いているような、実に洗練された現代的な空気感が広がっていた。
ここはインドの有名大学もある文教地区だそうで、全体的に教育水準が高く、ムンバイの中でも安全で治安が良いエリアの一つとして知られているらしい。
「すごく綺麗で、治安の良さそうな場所ですね。歩いている人たちの雰囲気も、市街地の中心部とはなんだか少し違うように見えます」
私が街並みを見渡しながら呟くと、コウさんが歩調を緩めて隣に並び、分かりやすく説明してくれた。百六十五センチの私の隣に並んだ彼は、健一よりも明らかに目線の位置が高い。そんな小さな差にまで気づいて比較している自分に、また少し呆れてしまう。
「ああ、そうだね。ここはかなり大規模な再開発地区なんだ。西洋風のオシャレなカフェや高級レストラン、品揃えのいいスーパーマーケットにインターナショナルスクールまで揃っているから、俺たちみたいな外国人にとっても暮らしやすい環境なんだよ」
すれ違う現地の人々も、心なしか身なりが綺麗系カジュアルのキチッとした服装の人が多い。コウさんは高層ビルを見上げながら、自身の経験を交えて言葉を続けた。
「インドで住宅を選ぶときは、とにかくセキュリティが最優先。実はここに来る前、動画の撮れ高や便利さを考えて中心部のホテルに長期滞在してたんだけどさ。あっちの人が多く集まる場所はやっぱりスリや置き引きに常に神経を使うし、夜間の外出やタクシー利用もかなり慎重にならなきゃいけない。あと、何より……前の部屋は謎の羽虫と巨大なGが大量に発生して、精神的に限界が来ちゃってね」
「うわぁ、それはきついですね……」
私の後ろを一歩引いて歩いていたナナちゃんが、本気で顔をしかめる。旅慣れているはずの彼でも、インドの極端な環境と文化の狭間で色々と苦労したようだ。
「インドって本当に広くて多様だから、ムンバイはその中でもかなり特異な都市だと思う。高級感、ローカル感、都会の喧騒、伝統文化――その相反するすべてが、一つの街にギュッと凝縮されて詰まっているような場所だからさ」
隣を歩くコウさんは、ネットのゴシップ記事で見た派手な印象とは違い、どこか地に足のついた大人の落ち着きを放っていた。
「今はさ、ネットで検索すれば、それこそ色んな情報がヒットするだろう? でもさ、誰かの極端な『ネガティブ体験』ばかりを見てると、こっちの不安だけが無駄に膨らんでいちゃうんだよね。だから俺は、ネットの情報は『事実』と『感想』をちゃんと分けて見るようにしてるんだ」
事実と、感想を、分けて見る――。
その言葉は、この旅の途中で情報を検索した中で抱いた、ネットの海に溢れる無責任な書き込みやコメントに怯えていた私の胸に、すとんと深く真っ直ぐに落ちてきた。
「だからこそ、自分自身が『何を大事に暮らしたいか』っていう軸をしっかり持っていないと、溢れる情報に振り回されて自分を見失っちゃう。……まあ、これってYouTubeのコメント欄の付き合い方と全く一緒なんだけどね。ね、ナナちゃん」
「あはは、確かに! それはめちゃくちゃ身に染みます!」
後ろから、コウさんのプロらしい例え話にナナちゃんが大きく同意して笑う。
そんな会話をしながら歩いていると、いよいよ目的地である洗練されたエントランスを設けたマンション群が見えてきた。
「この辺りは三十階建てくらいまでの高級マンション群って印象ですけど……やっぱり、お家賃は相当高いんですか?」
興味津々といった様子で後ろから尋ねるナナちゃんに、コウさんは首をすくめた。
「まあ、現地の物価からしたら安くはないかな。でも、本当にピンキリだよ。ちなみに俺が借りてるところは十階建ての棟で、スリーベッドルームの間取り。日本円で月二十五万くらいかな」
「えっ、スリーベッドルームですか!?」
ナナちゃんがパッと目を丸くして、前を歩く狭山さんの背中に悪戯っぽい視線を向けた。
「男一人の独身海外暮らしで、スリーベッドルーム……。コウさん、もしかして、日本にどなたか残してきてるとか、実はご結婚されてたりします?」
「おい! 俺は正真正銘の独身だ! 変な勘繰りするなよ、すみれさんに誤解されるだろうが!」
コウさんはガタッと大慌てで真横に並ぶ私に視線をよこすと、まるで実年齢よりずっと幼い青年のように耳の後ろを赤らめて声を荒らげた。
「えっ? すみれさんに誤解される、って……それってどういう意味ですかー?」
ナナちゃんがニヤニヤと実に底意地の悪い、楽しそうな笑顔を浮かべて、コウさんの顔を後ろから覗き込む。
「おいおい、ナナちゃん。それくらいにしてやってくれよ。コウのやつ、さっきから珍しくキャパオーバーでバグり散らかしてるんだからさ」
「ヒロシ! お前まで一緒になって煽るんじゃねえよ!」
ナナちゃんと並んで後ろを歩く片山さんが、ついに堪えきれずにクスクスと肩を揺らした。その表情は、親友の滅多に見られない大慌てな様子を最高に面白がっている、確信犯の悪い大人の顔だった。
あんなに冷え切って固まっていた私の心が、彼らの笑い声に触れて、ゆっくりと、けれど確かにほどけていくのが分かる。
――ああ、私、いま、すごく楽しいかもしれない。
腕に提げた『ポワイ・プラザ』の紙袋のなかで、差し入れのために選んだマフィンのボックスが、私の弾む歩調に合わせて優しく、ぶらぶらと幸せそうに揺れていた。
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