第67話 楽しいランチタイム
「すみれさん、着きましたよ」
そんな、ナナちゃんの優しい声でハッとして目をあける。
車内の冷房の快適さと心地よい揺れに、いつのまにか本格的に眠ってしまっていたようで、私は急に気恥ずかしくなって慌てて姿勢を正した。
到着した先は、それまで見てきたムンバイの雑多な街の風景とは完全に一線を画す、洗練された高層マンション群が立ち並ぶ近代的な街並みだった。ここが市街地北東部の閑静な住宅地エリア、『Powi ポワイ』。
私たちはまず、コウさんのコンドミニアムの近くにある商業施設『Powai Plaza ポワイ・プラザ』の前で車を降りた。
そこで事前の予定通り、編集作業をしながら男の人二人でも片手で手軽につまめて、食事の代わりにもなりそうなマフィンを購入することにした。海外特有のチョコやアイシングがいっぱいの甘ったるいものではなく、チーズやスパイスが練り込まれたものや、目の疲れに良さそうなブルーベリー入りなど、あまり甘くなさそうな種類をいくつか見繕った。
そして約束の正午。コンドミニアムの北側エントランスで、昨日ぶりの片山さんと、そして今日初めて顔を合わせる「旅系YouTuber」の狭山航さんと合流した。
実物のコウさんは、片山さんと同じくらいの百八十センチほどの背丈があり、整った顔立ちとビシッと決まったツーブロックのヘアスタイルが目を引く男性だった。白いタンクトップの上から麻と思われる薄いブルーのシャツを羽織り、デニムのハーフパンツにスニーカーというカジュアルな服装なのに、そこにいるだけで圧倒的な存在感を放っている。
近くを通り過ぎる女性たちが、人種を問わずチラチラと彼に視線を送っていくが、彼にとってはそれが日常なのだろう。その表情には何の変化も浮かんでいない。想像以上にモデルばりの迫力がある初対面の相手に、私は『この人は自分に絶対の自信がある人なんだろうな』と勝手に納得してしまった。
(……健一もそれなりに容姿は整っていたけれど、さすがに次元が違うわね)
そんな風に比較してしまった自分に、胸の内で失笑する。こんな場所にまで来て、異国のお洒落な街でさえ、まだ私は健一のことを思い出してしまうのか、と。
ネットの検索画面で見たコロコロ変わる派手な髪色とは違い、今の彼はシックな黒髪だった。耳元にはいくつものシルバーピアスが光り、シャツの袖口を少し腕まくりした右腕からはタトゥーが覗いている。一見すると、これまで、レディースのアパレルブランド勤務だった私の堅実な人生では交わるはずのなかった『別世界』の男性だ。けれど、彼は私たちの姿を見るなり、実に人当たりの良い爽やかな笑顔を浮かべて、驚くほどスマートにエスコートしてくれた。
昨日、スマホの画面越しに少し挨拶を交わしただけだったが、そんな距離感を忘れるほどスムーズに、私たちはコウさんと片山さんの二人と連れだってランチのレストランへと向かった。
案内されたのは『Urban Cuisine アーバン・クイジン』。開放的なテラス席を設えた、緑豊かな本当にお洒落なレストランだった。さすがは今をときめく配信者と言うべきか、いけてる男子は店のチョイスにも一切抜かりがない。すっかり常連らしく、コウさんは入り口でウェイターと親しげに笑顔で挨拶を交わしている。
私たちが席へ通されたのは、しっかりと冷房の効いた屋内席の、大きな窓際のテーブルだった。ガラス窓の向こうには、美しく手入れされた庭の瑞々しいマメ科の落葉高木、ゴールデンシャワーが鮮やかな黄色の花を咲かせている。窓辺から絶妙なバランスで配置されたその緑と黄色は、都会の喧騒を綺麗に忘れさせる心地よさを演出していた。
「さあ、座って。ここはインド料理だけじゃなく、中華料理もすごく充実してるから、今日は好きなものを遠慮せず注文して。毎日スパイスばかりで、そろそろカレー味以外の違ったものも食べたい頃でしょう? ここの中華はどれも上品で、日本人の口にも絶対に合うと思うよ」
コウさんの気さくな言葉に、私とナナちゃんは思わず顔を見合わせた。
まさにその通りだったのだ。そろそろ、あの刺激的なスパイス以外の味が恋しくてたまらなくなっていた。
それに、朝食を抜いて『ハジ・アリ』の帰りに冷たいマンゴージュースを一杯飲んだきりの私たちは、今、ものすごい空腹を感じていた。
じわじわとお腹の底から健やかな食欲が湧いてくる。――よく考えたら、健一のあの裏切りを知って日本を飛び出して以来、こんな風に純粋にお腹を空かせ、自発的に「食べたい」と思えたことなんて、この一ヶ月の間、一度もなかったことだった。
「はい! でも、メニューを見てもよくわからないので、コウさんにお任せしていいですか? みんなでシェアする形でも大丈夫でしょうか?」
ナナちゃんがメニューのバインダーを開きながら、嬉しそうに提案する。
「ああ、もちろん。俺たちはなんでも大丈夫だけど。二人は、具体的に何か食べたいメニューはある?」
コウさんが優しく微笑みながら問いかけると、ナナちゃんが楽しそうに答えた。
「うーん、そうですね。中華だったら、パラパラの炒飯と、あとは八宝菜か酢豚っぽい、お肉と野菜が食べられるものがいいです。スープも、とろみのあるさっぱり系が飲みたいです。すみれさんは、どうしますか?」
「私も、ナナちゃんと同じがいいわ。少し胃に優しい、さっぱりした味付けのものが食べたいです」
初めて会った男性を前にして少し図々しいかしらと思いつつも、いざとなると、日本で食べ慣れていたあの懐かしい中華の味がどうしても恋しくなって、私は素直に自分の希望を口に出した。
「……そう。二人がちゃんと空腹だってことはよくわかったよ」
私の言葉を聞いた瞬間、コウさんはメニューを持つ手を止め、私をまっすぐに見つめたまま、十秒ほど完全に固まってしまった。
その様子を横で見ていた片山さんが、呆れたようにコウさんの肘を小突く。ハッとしたようにビクッと肩を振るわせた狭山さんは、耳の後ろを少し赤くしながら、照れたように笑った。
「じゃあ、一品料理を適当にバランスよく頼むから、食べてみて足りなかったらその都度追加しよう。ヒロシも、それでいいか?」
「ああ。俺はお前に任せるよ」
一歩引いたところで優しく親友を見守っている片山さんが、深く短く頷く。
コウさんが流暢な英語でウェイターに合図を送り、温かいスープから前菜、メインの一品料理まで、中華料理を中心にメニューを指差しながら結構な品数を手際よく頼んでいく。
「あの、コウさん、流石にちょっと多くないですか? 私とすみれさん、そんなに大食いじゃないので絶対に食べきれませんよ」
注文の連打に、ナナちゃんが慌てたように小さな声を上げた。
「ああ、気にしないで。食べられる分だけ、好きなように食べたらいいよ。もしも残っちゃうようならテイクアウトして、俺たちが今日の夜、編集の合間につまむからさ」
コウさんはそう言って、大人の余裕を感じさせる細められた瞳で、私たちを安心させるように爽やかに笑った。
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