第66話 白亜のハジ・アリと、満ちていく足元
翌朝、私たちはUberで呼んだ車に乗り込み、アラビア海に浮かぶ白亜のイスラム霊廟『ハジ・アリ・ダルガー』へと向かった。
ホテルを出発したのは、まだ街が静かな午前六時。今朝のムンバイの気温は二十七度。昨日の夕方に早くも仕上がって戻ってきた、お気に入りのパンジャビ・ドレスに身を包み、私たちは準備万端で車に揺られていた。
幸いにも本格的な朝の交通渋滞が始まる前だったため、車はスムーズに進み、予定通り三十分ほどで目的地へと到着した。今朝のドライバーさんも白髪混じりの明るいおじいちゃんで、「どこから来たんだ?」という気さくな世間話から旅の朝がスタートする。
『ハジ・アリ・ダルガー』は、潮の満ち引きによって、満潮時にはモスクへと続く参道が完全に海面下に沈んでしまう。参道を歩いて参拝できるのは、干潮を挟んだ限られた時間だけなのだ。
六月下旬にはモンスーンが近づいてくるこの季節。前夜にチェックしたタイドグラフの情報によると、深夜の三時五十五分に干潮を迎え、この五月下旬の今日は、午前十時五十五分に満潮を迎える予報になっていた。
時刻は朝六時四十分。私たちは無事に、参道の入り口にある人気店『Haji Ali Juice Centre ハジ・アリ・ジュースセンター』の前にたどり着いた。ここから海に浮かぶモスクまでは、一本の細い参道がまっすぐに延びている。
「ここのミルクシェイクがバズってるみたいですよ」
「そうなのね。じゃあ、帰りに何か試してみましょうか」
「はい!楽しみが増えましたね」
「すみれさん、『江の島』って行ったことありますか?」
ナナちゃんが観光客で賑わい始めた参道を見つめながら、歩調を合わせて尋ねてきた。
「ええ、学生時代に一度だけ。確かに、江島神社までの一本道は、景色としては似ている印象ね」
「ですよね! それにしても……やっぱり物売りの男の人たちが多いですね。申し訳ないですけど、カメラを向けると少し面倒なことになりそうだなぁ。はあ、後で動画の顔にボカシを入れる編集作業が大変そうです」
「ふふふ。ナナちゃんは相変わらず仕事熱心で、撮れ高重視ね」
ナナちゃんがプロらしい苦笑いを浮かべる通り、約五百メートルほどの参道の片側には、お土産物を売る露天商の人たちがずらりと地べたに座り込み、商品を広げていた。中には物乞いの人の姿もちらほらと見受けられる。
干潮時とはいえ、すぐ真横からはアラビア海の荒波がザブンザブンと白い飛沫を上げて打ち寄せていて、そんな場所に座り込んでいて商品は流されないのだろうかと、見ているこちらが少しハラハラしてしまう。
そんな賑やかな参道を、私たちは十五世紀に建てられたという霊廓を目指して歩いた。ここは偉大なムスリムとして生きた『ハジ・アリ氏』を祀る、とても神聖な場所だ。
「私たちみたいな観光客も多いですけど、この宗教の信者さんだけが来ているわけじゃなさそうですね」
「ええ。この海の上という特別な立地だからかしら。ヒンドゥー教徒らしき人たちの姿も多そうね」
いよいよ、遠くに見えていた白亜の霊廟が目の前に近づいてくる。立派な門をくぐると、潮風に洗われた美しい白い霊廓が私たちを迎えてくれた。
厳かに静まり返って祈りを捧げる場所、というよりは、朝早くから多くの観光客や巡礼者がワイワイと行き交う、活気ある一大観光地といった印象を受ける。
境内では、その場で写真を撮って現像プリントしてくれる昔ながらの露天写真商売が人気のようで、たくさんの家族連れが並んでいた。もちろん、自分のスマホやデジカメで楽しそうに自撮りしている若者も多い。
海の上にせり出した岩場では、容赦なく押し寄せる激しい波しぶきを全身に浴びながら、ポーズを決めて撮影している人たちもいた。その誰もが本当に明るい表情をしていて、見ているこちらまで自然と笑顔になってくる。
「すごいわね、ナナちゃん。ほら、あそこにいる男の人なんて、今にも波にさらわれそうなスレスレの場所に立っているわよ」
「うーわぁ、本当ですね! あれは顔さえ映らないようにボカせばいいから、ちょっと遠目から撮影させてもらおうっと!」
波打ち際で幸せそうに家族写真を撮る人たちを眺めながら、私は少し蒸し暑い、ベタついた潮風に吹かれていた。
(ずいぶん、遠いところまで来ちゃったな……)
ふと、胸の奥から湧き上がる郷愁に駆られ、遠い水平線を見つめてぼんやりしていると、一通りの撮影を終えたナナちゃんが心配そうに顔を覗き込んできた。
「すみれさん、大丈夫ですか? やっぱり朝が早かったから、少し疲れちゃいましたか?」
「あ、ごめんなさい。ただ、みんなすごく平和だなぁと思って、ちょっと黄昏ていただけよ。体調は大丈夫、ありがとう」
「よかった! そろそろ十時になりますし、潮が満ちて足元が濡れたら心配だから、戻りましょうか」
「ええ、そうね。そうしましょう」
私たちが歩いた参道を、今度は街に向かって引き返し始めると、予報通り満潮の時刻が近づいているらしく、参道のところどころが寄せる白波に侵食されて濡れ始めていた。さっきまで地べたで商売をしていた人たちは、波が高くなると手際よく荷物をまとめ、さっさと陸地の近くへと移動して、何事もなかったかのように商売を続けている。
その、どんな環境の変化にもへこたれない性根逞しい『生きる力』を目の当たりにして、私は胸の奥を小さな焦燥感で掻き立てられるような気持ちになった。日本を出国して一ヶ月。私も、いつまでも立ち止まってばかりいないで、前を向いて何かをしなきゃいけないんじゃないか、と思い始めていた。
「ねえナナちゃん、満潮の時には、みんなどうやって参拝するのかしら? 船か何かを使うのかしらね」
「どうなんでしょう。私もネットで検索したんですけど、干潮時の参道の案内しかヒットしなかったんですよね」
「まあ。ここは『インドのモン・サン・ミッシェル』とも呼ばれているらしいから、やっぱり陸からのアクセスだけなのかもしれないわね」
私たちは車を降りた場所まで無事に戻り、人気店『Haji Ali Juice Centre ハジ・アリ・ジュースセンター』に立ち寄る。今朝はまだ朝食を摂っていなかったが、時刻はすでに十時半を回っている。もうすぐ正午のランチの時間も近いので、ここではお腹にたまらない『マンゴー・フレッシュジュース』を一杯ずつ購入することにした。乾いた体に、濃厚なマンゴージュースの瑞々しい甘みがじわリと胃に染みていく。
「さすがは人気店ですね。めちゃくちゃ美味しいです!」
「そうね。他のお店よりお値段は少し高めらしいけれど、これだけ美味しくて立地も最高なら、このすごい混みようも納得だわね」
店内で冷たいジュースを飲みながら、私たちはUberで呼んだ迎えの車を待った。
「ねえ、ナナちゃん。これからコウさんのお宅にお邪魔するんだけど、ちょうどお昼時でしょう。ランチはどうするのかしら? 何か、私たちがご飯になるようなものでも途中で購入していく?」
「あっ、ちょっと待ってくださいね。ちょうど片山さんからメッセージが来ました!」
ナナちゃんがスマホの画面を確認し、素早くメッセージのやり取りを交わす。
「片山さんが言うには、『お昼はコウさん家の近くにあるお気に入りのレストランに出かける予定だから、手ぶらで心配しないで来て』だそうです!」
「そう、気を使わせてしまったわね。それなら安心ね。それじゃあ、コンドミニアムの近くにあるショッピングモールに立ち寄って、デザートか何かを差し入れとして買って行きましょうか。動画の編集作業をしながら、男の人二人でも手軽につまめるようなものがいいわよね」
「はい! さすがすみれさん、気が利きますね!」
私たちは車に乗り込み、ムンバイの市街地北東部にある『Powai ポワイ』というエリアを目指した。ここは治安が非常に良く、外国人向けの設備や最新のセキュリティが整った、現地でも屈指の高級高層コンドミニアム街だという。
車を走らせること約四十五分。冷房が心地よく効いた快適な車内から、窓の外に流れるインド特有の活気ある人々の暮らしを眺めながら、私たちはのんびりと移動を続けた。
その間も、ナナちゃんは積極的にカメラを動かし、流れる街の様子を真剣に映像に収めていた。本当に大変で、プロフェッショナルな仕事だなあ、と感心しながら眺めているうちに、朝の早起きが祟ったのか、私は心地よい眠気に襲われるまま、そっと瞼を閉じた。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




