第64話 旅の疲れと、ムンバイの夜
今夜の夕飯も、私たちは迷わずホテルのレストランが提供しているビュッフェを選んだ。
インドのローカルなお店を開拓するのも旅の醍醐味ではあるけれど、高級ホテルのビュッフェは何より抜群に美味しい上に、周囲の目を気にせず、帰り道の心配もせず、涼しい室内でのんびりと食事ができるという点が、今の私たちにはポイントが高かった。
飲み物は、アルコールではなく炭酸水のペリエにする。昼間のカフェで冷たいビールを一杯いただいていたし、慣れない土地で歩き疲れた体にこれ以上のアルコールを入れるのは、体調を崩す引き金になりかねなくて危険だと判断したからだ。
「はあー……。さっきはスコールでずぶ濡れになっちゃいましたけど、サンセットが綺麗に見えて本当に良かったです! しかし、今日は本当によく歩きましたね。インドの暑さと、あの独特な人混みのエネルギーに揉まれるだけで、結構、こちらのパワーをごっそり持っていかれちゃいますね」
ナナちゃんは、さすがに少し疲れた表情を見せながら、優しい味わいのダルスープをスプーンで口に運び、ぽつりと言った。
「本当ね。じりじりと照りつける太陽の下から、カフェみたいに冷房がガンガンに効いた屋内に入ると最初は気持ちいいんだけど。あの激しい出入りを何度も繰り返していると、自律神経をやられるというか、体力をゴリゴリ削られていく感覚があるわね」
「そうなんですよ! なんだか体が地味にだるいんですよね。ここできちんと体調管理をしておかないと、明日あたり一気にガタが来て寝込むことになりそうです」
「ええ。ジャイプールへの移動も控えているし、お互いにこの極端な気温差には十分に気をつけましょうね。……あ、そういえば、さっき街の女性たちを見ていて思ったんだけど、パンジャビ・ドレスとセットになっているあの長いストールを上手に使っていけばいいのかもね。日よけにもなるし、冷房が強い室内では肩や首元に巻けば防寒になるじゃない?」
「あっ、確かに! あれってただのお洒落じゃなくて、現地の気候を生き抜くための防具でもあったんですね。やっぱり、長く愛されている民族衣装にはちゃんと合理的で深い理由があるんだなぁ。素敵ですね!」
ナナちゃんが感心したように目を輝かせる。
私たちは、チャパティと呼ばれる全粒粉と水だけで作られる素朴な薄焼きの無発酵パンをちぎり、濃厚なマトンのカレーにたっぷりとつけて舌鼓を打った。
ビュッフェの何よりいいところは、本場のスパイスが効いた何種類ものカレーを、自分の過酷なお腹の具合に合わせて少しずつ試せることだ。外国語でのオーダーに余計な気を使うこともなければ、チップの額を気にかけることも、頼みすぎて残してしまう心配もない。なにより、帰り道の移動手段を気にせずに済むのが最高だった。
お肉と野菜の旨味が凝縮されたカレーを堪能したあとは、口直しに冷たいラッシーや現地の伝統的な甘いデザートまで一通り贅沢に食べ終え、私たちは大満足でお腹を満たして自分たちの部屋へと戻った。
今晩は早めに十時頃には就寝しようと話し合い、それまでの時間で明日の日程を決めることにする。正午には狭山さんのお宅にお邪魔する予定なので、ナナちゃんは片山さんから届いたマップをスマホで確認していた。
「コウさんのお家、ムンバイの閑静な住宅街にあるようなので、これなら午前中もあまり時間を気にせず観光できそうですよ」
「そう? じゃあ、当初の計画通り、朝のうちに『Haji Ali Dargah ハジ・アリ・モスク』へ行ってみない?」
私は手元のスマートフォンで調べた画面をナナちゃんに見せる。
「ここ、アラビア海に浮かぶ白亜のイスラム霊廟なんだけど、干潮時の限られた時間にしか参道が現れない神秘的なスポットらしいの。満潮になると、約五百メートルの参道が完全に海に沈んじゃうんだって。だから訪問日の潮見表のチェックが必須なんだけど……調べてみたら明日の午前中はちょうど潮が引くみたい。混雑を避けて、開門直後の朝の六時から八時くらいの涼しい朝イチを狙えば、一番快適に回れると思うのよね」
「へえーっ! 海に沈む参道なんて、めちゃくちゃ動画映えしそうですね! 撮影の許可とか服装はどうなんだろう……」
「私たちは今日着たパンジャビ・ドレスがあるし、あの長いストールで頭や肩を覆えばドレスコードも問題なしよ。撮影は、内部は確認が必要だと思うけれど、外観の美しさは撮れ高があるんじゃないかしら」
「じゃあ決まりですね! 明日の朝はホテルの朝食はあきらめて、朝六時にUberを配車しちゃいましょうか。早起きは三文の徳ですもんね!」
「ふふふ、そうね。朝の涼しい時間なら体も楽かもしれないわね。狭山さん宅への差し入れは、明日、観光の出先で何か良さそうなものを考えましょう」
「あっ! そうか、そうですね。さすがはすみれさん、ちゃんとお仕事されてた大人の社会人ですねぇ」
「あら、褒めてもらったのかな? ナナちゃんも十分に自立した立派な社会人だと思うけどね」
私たちは明日の作戦を終えると、それぞれ寝支度を済ませてベッドに入った。
消灯するまでの静かな部屋の中、私は「旅系YouTuber 狭山航」について、少しでも事前情報を仕入れておこうとスマホで検索してみた。まるで仕事の新規クライアントを調べるときのように、失礼がないようにと思いながら。
どうやら私より二歳年下らしい彼は、東京都の出身で、某有名大学法学部在学中から世界を旅する動画を配信していた。それがまたたく間に大きな話題となり、卒業後はそのまま就職せず、YouTuberとして活動しているらしかった。
ネットの画面上には、髪の色をコロコロと変え、右腕にタトゥーが入り、耳にはたくさんのピアスを開けた、あまりにも整った容姿の彼の画像が多くヒットする。さらには、モデルや芸能人との交際の噂、夜の街での派手な交友関係といったゴシップ記事までが次々と目の前に現れた。
(……私とは、完全に『別世界』のタイプかしら。ナナちゃんがすごく素直で馴染みやすい子だったから、YouTuberという職種自体にそこまで違和感を抱かなかったけれど、どうも彼は全く毛色が違うみたいだわ……)
一抹の不安を覚えつつも、日中の歩き疲れと、心地よく調整されたホテルの室温、そしてふかふかの気持ちいい布団の誘惑には勝てず、私はいつの間にか意識を手放し、深い眠りへと落ちていた。
気がつけば、一度も途中で目を覚ますことなく、朝五時にセットしておいたスマートフォンのアラームの振動で、すっきりと目が覚めた。
――あの日、健一の裏切りを知った夜以来の不眠と食欲不振が嘘のようだった。
まさか、インドの地で、食欲が刺激され、毎夜ぐっすりと眠れる日が来るとは……。心とは別に、体は元気を取り戻そうとしているように感じられた。
昨日の夕方に浴びた激しいスコールと、ナナちゃんが差し伸べてくれた温もりと優しさが、私の中に澱のように溜まっていた何かを、洗い流してくれたのかもしれなかった。
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