第63話 マリーンドライブの夕陽と、溢れる涙
めまぐるしいムンバイの街の観光を終えて五時過ぎにホテルへと戻った私たちは、まずは何よりも先にシャワーを浴び、べたついた汗を洗い流してようやく一息ついた。
お互い一着ずつしかないパンジャビドレスは、今日の散策ですでに汗だくのクタクタだ。
今日の猛暑のなかを歩き回ってすっかり汚れてしまった服を、まとめてホテルのランドリーサービスへと出す。少し割高ではあるけれど、明日の朝には綺麗になって戻ってくる予定なので、ここで洗濯・乾燥を済ませておけるのは有り難かった。
楽な服に着替えた私たちは、サンセットを眺めるために、ホテルの目の前に広がる『マリーンドライブ(Marine Drive)』へと足を延ばした。ホテルの名前に冠されている通り、歩いてすぐ目の前にある、全長三・五キロメートルにも及ぶアラビア海沿いの遊歩道だ。
スマホで時間を確認すると、五月下旬の今日、ムンバイのサンセットは十九時十五分頃。日没まであと一時間ほどだった。
周囲を見回すと、地元のほとんどの人たちが防波堤に腰掛け、足を海側にぶらぶらとさせている。見える範囲のずっと先まで、驚くほど多くの人たちが同じように腰掛けていた。中には、岸辺に設置されたテトラポッドに器用に腰掛けている人の姿もある。みんなこうして、のんびりと心地よい潮風に吹かれながら海を見つめているのだ。
「……綺麗ですね」
それまでカメラを回してはしゃいでいたナナちゃんが、ふっと機材を下ろして呟いた。
「私、日本にいたときは、夕陽なんてまともに眺める余裕もなかったな。いつもスマホの画面を見て、次の動画のことばっかり考えてて。何のために生きてるんだろうって、分からなくなってました」
「ナナちゃん……」
「でも、騙されて、失恋して、こうしてインドに来て、すみれさんとこの海を見られて……。なんだか、あいつのこと、もうどうでもよくなっちゃいました。あんなに泣いたのに、不思議ですね」
ナナちゃんは照れくさそうに笑いながら、目を細めてオレンジ色に染まる水平線を見つめている。その横顔は、悲しみを乗り越えた強さと、どこか凛とした美しさに満ちていた。
「すみれさんは、この夕陽を見て、何か変わりました?」
突然の問いかけに、私は言葉を詰まらせた。
何か、変われただろうか。日本を飛び出して三週間、私の心はまだあの場所に取り残されたままだ。それでも、目の前に広がる圧倒的な自然の美しさと、隣にいるナナちゃんの温かさが、頑なだった私の心を少しずつ、本当に少しずつだけど、柔らかく解きほぐしていくのを感じていた。
「……私は、まだナナちゃんみたいに強くはなれていないけれど。でも、この夕陽を見られて、ここに来て良かったって、初めて心から思えた気がするわ」
「ふふ、それなら良かったです」
ナナちゃんが嬉しそうに微笑む。
やがて、美しい夕陽の名残と、オレンジ色にライトアップされ始めた街並みが、夜の闇に溶け合う見事なグラデーションを描き出していく。
緩やかなカーブを描く湾岸線に沿って、等間隔に並ぶ街灯の群れ。それらが夜の海に反射してきらきらと輝く様子は、その美しさから『Queen’s Necklace クイーンズ・ネックレス(女王様の首飾り)』と称されている。それは、まるで闇夜のドレスに本物のパールネックレスを飾ったかのような光景だった。
海から吹き抜けてくる潮風は、日中の熱を孕んでまだ生暖かかったけれど、肌を焦がすようなあの昼間の酷暑に比べれば、十分に心地よく感じられた。
防波堤に腰掛けて海を見つめていた人、ベンチに座って肩を寄せ合う人。周囲を見渡せば、家族や恋人、友人たちと寄り添い、誰もが穏やかな笑顔で他愛のない談笑を交わしていた。
――ここにある幸せそうな笑顔の数だけ、それぞれの人たちに、それぞれの当たり前で愛おしい時間が流れているのだ。
そう思った瞬間、もう、ダメだった。
突如として、張り詰めていた心の決壊が訪れた。急に喉の奥がカッと熱くなり、目の奥から止めどなく涙が溢れ出てくる。必死に奥歯を噛み締め、止めよう、堪えようと思えば思うほど、感情の波は制御を失って私を飲み込んでいった。
涙はやがて堪えきれない嗚咽となり、静かな夜の海風に混ざって漏れてしまう。ダメだ、こんなところで泣いちゃダメなのに。そう頭で分かっていても、胸の奥から湧き上がる悲しみと孤独感は、もうどうしても止まってはくれなかった。
隣に座っていた私の異変に気づいたナナちゃんは、手元で回していたGoProの撮影をすぐに止めると、何も言わずに私の肩に腕を回し、ギュッと抱きしめてくれた。
「大丈夫。大丈夫ですよ、すみれさん。大丈夫です……」
何度も、何度も。小さな子をあやすかのように優しく低い声をかけながら、ナナちゃんは私の体をそっと引き寄せ、まわした手のひらで私の腕を優しくゆっくりとトントンし続けてくれる。
自分よりも六歳も年下の、つい五日前に知り合ったばかりの女性に、こんな風に身を委ね、剥き出しの心を晒して子供のように泣き続けるなんて。今までの頑なだった自分の生き方からすれば、およそ信じられない、あまりにも意外な行動だった。
――健一にも、あのとき、嫌なことはイヤだと、ただ一言だけでも伝えていればよかったのだろうか。
自分の気持ちを押し殺して、物分かりのいい人間のフリなんてしなければ、私たちの未来は何か違っていたのだろうか。
今さらどうしようもない、ぐるぐると堂々巡りをするだけの後悔と未練が、涙と一緒に次から次へと溢れ出してきて止まらない。
けれど、ナナちゃんの温もりだけが、今の私をこの世界に繋ぎ止めてくれる唯一の救いのように思えて、私は彼女の肩口に頭を預けて涙を流し続けた。
その時、バラバラと音を立てて、頭上から突然の激しいスコールが降り始めた。
まるで、私の流す格好悪い涙を世間から隠してくれるかのように。生温かい南国の雨が、暗い空から容赦なく降り注ぎ、私たちのすべてを激しく洗い流していく。
時間にして、およそ十分ほどだったろうか。
雨の勢いに気圧されるようにして、私の胸のざわつきがようやく落ち着き始めた頃、あれほど激しかったスコールは嘘のように綺麗に通り過ぎていった。
遮るもののない海岸通りで、まともに雨を浴びた私たちは、お互いに髪からも服からも水滴を滴らせ、信じられないほどずぶ濡れになっていた。そのあまりに悲惨で、けれどどこか清々しい姿に、私たちはどちらからともなく、ふっと顔を見合わせて小さく笑った。
「ナナちゃん、本当にありがとう……。ごめんなさいね、急に、感情が止められなくなっちゃって。……あ、それよりGoProは大丈夫!? かなり濡れちゃったんじゃない?」
「あはは、大丈夫ですよ! これ、バッチリ防水ですから! でも、ほら、雨が強くなった瞬間にちゃんと水除けのカバーもかけましたから! ふふふ、私、ちゃっかりしてるでしょう。YouTuberにとって、機材のバッテリーと撮影データが入ったSDカードは命ですからね!」
ナナちゃんは濡れた前髪を無造作にかき上げると、いつもの弾けるような優しい笑顔を私に向け、これ見よがしに大裟裟なほど胸を張ってみせた。
言葉の端々に滲む、彼女の温かい気遣いが、何よりも嬉しかった。
濡れた衣服が肌に張り付いて少し冷たかったけれど、私の胸の奥には、素焼きのチャイを飲んだときよりもずっと深い、確かな温もりが静かに灯り始めていた。
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