第60話 ◇ 決別のエレベーターと、ジャカルタの到着の夜
ジャカルタへと飛び立つ前々日、佐藤健一は最後の挨拶のために差し入れを持って会社へ向かった。
数日前まで自分が座っていたデスクを眺めながら、引き継ぎをした同期の男に「何か不備や不明な点はないか?」と声をかける。特段の問題がないことを確認し、お世話になった職場への挨拶をすべて終えると、健一は荷物を手に社を後にしようとエレベーターに乗り込んだ。
これで、この本社ビルともしばらくお別れだ。そう息を吐き、閉まるボタンを押した直後――。
「あ、待ってください!」
滑り込みながら、慌てて一人の女性が乗り込んできた。
美咲だった。
「……何か、用でも?」
健一は一瞬で表情を硬くし、強い警戒心を隠そうともせずに問いかけた。
「……私、結婚するの。取引先の、専務の息子さんと」
突然、美咲がぽつりと話し出した。いつものように男の気を引くような媚を含んだ甘い表情ではなく、何かを必死に耐えているような、低く硬い声だった。
「そう。おめでとう」
健一の感情が一切こもっていない、事務的で型通りの社交辞令。それを聞いた瞬間、美咲の顔が傷ついたように一瞬だけ激しく歪んだ。
「……私、絶対に幸せになるわ。……健一さんが心の底から後悔するくらいにね!」
美咲は潤んだ瞳で、健一を正面からキッと睨みつけると、まだ目的階でもない最短の階のボタンを乱暴に押し、開いた扉から背を向けてさっさと去っていった。
エレベーター内に一人残された健一は、閉まった扉を見つめて、小さく深いため息を呟いた。
「勝手にしてくれよ。こんなところを社内の誰かに見られたらどうする気だ……本当に勘弁してくれ」
どこまでも自己中心的で、自分の都合のいい物語の中に生きている女だった。面倒ごとはごめんだと毒づく反面、これでようやく、彼女との忌々しい過去に本当の意味で決着がついたような、不思議な心の整理を感じていた。
そして、どこかで自分も大概に自己中心的だという自戒の念は浮かんで消えていった。
そして迎えた、ジャカルタ出発の日。
成田空港の出発ロビーには、大きなスーツケースを引いた健一と、それを見送る弟の慎二の姿があった。
「兄貴、二年間のお勤め、しっかり頑張ってきてよ! そのうち俺も絶対に遊びに行くから、そしたら一緒にバリ島とか旅行しようぜ」
「お前は相変わらず気楽なもんだな。まあ、そうだな……いつか遊びに来いよ、待ってる。留守中の家のこと、よろしくな。何かあったらすぐに連絡をくれ」
「了解。じゃあ、健康に気をつけて、元気でね!」
健一は慎二のどこか頼もしい表情に小さく笑顔を交わして出国ゲートをくぐった。
ジャカルタまでのフライト時間は約八時間。
夕方の六時に日本を飛び立ち、二時間の時差を超えて、現地時間の深夜十二時に到着する予定の便だ。夜間着のフライトではあったが、空港へは現地採用の日本人スタッフが車で迎えに来てくれる手はずになっており、初めての土地でも心配はなかった。
機内に入り、割り当てられた席に深く腰掛けてシートベルトを締めると、二十分ほど待たされ轟音と共に機体が浮き上がる。窓の外で遠ざかっていく夜景を見つめていると、自分が本当に国を出たのだという実感が、じわじわと押し寄せてきた。
少なくとも、二ヶ月前には思いもよらなかった展開だ。
通常の海外転勤であれば、まず「内示・打診」から始まり、現地の就労ビザ取得や赴任前研修などを経て、実際に「渡航」するまでには早くても三ヶ月から半年ほどの猶予がある。
しかし健一の場合は、現地の前任者が健康問題で急遽帰国することになったための、文字通りの緊急リリーフだった。二ヶ月前に急な内示を受け、そこからは怒涛の日々。就労ビザの正式な発給手続きが間に合うかどうかも本当にギリギリのスケジュールだった。
ただ、健一が単身者であり、学歴と、日本の大企業としての確実な身元保証があったことが幸いした。まずはひとまず観光ビザの枠組みで入国し、現地に到着してから速やかに正式な手続きを進めて切り替えるという、会社側の迅速な手配によって、どうにかこの日を迎えることができたのだ。
そうした会社の強力なバックアップの有り難さを噛み締めると同時に、不思議と自分自身が出国したことで、すみれの当時の心境に一歩近づけたような気がしていた。
(あの時、すみれはどれだけ不安だっただろう……)
今の自分には、住む場所も、約束された職場も、自分を案内してくれる現地のスタッフすら用意されている。しかし彼女は、頼るあてもない異国へ、すべて自分の判断と責任だけで飛び出していったのだ。失意のどん底の中で。
そう思い至った瞬間、過去の自分の傲慢さと、侵した過ちの申し訳なさで、胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。
結局、仮眠をとることはできなかった。
夜の闇を切り裂いて進んだ機体は、やがて鈍い衝撃と共に、熱帯の空気が満ちるジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港へと着陸した。
入国審査を無事に終え、預けたスーツケースを受け取って到着ゲートへと向かう。自動扉が開いた先、出迎える人々の群れの中に、自分の名前が大きく書かれた紙を掲げている青年が見えた。健一と同じ年頃の日本人らしき男性だ。
「佐藤さん、ですか? 長旅お疲れ様です! 現地スタッフの富永です。これから滞在先となるコンドミニアムまでお送りしますね。あ、お腹とか減ってらっしゃいますか?」
いかにも好青年という印象の、健康的に日焼けした男性だった。深夜の到着だというのに、それを微塵も感じさせない明るいテンションで話しかけてくる。
「初めまして、佐藤です。こんなに遅い時間にお待たせして申し訳ありません。これからどうぞよろしくお願いします。――食事は機内で済ませたので大丈夫なんですが、できれば何か冷たい飲み物が買いたくて。途中でどこか、コンビニのような場所に寄っていただくことはできますか?」
「お安い御用です! じゃあ、車へ向かいましょう」
富永が気さくに健一のスーツケースを持って歩き出す。
まとわりつくような夜の熱気と、見慣れない異国の街並み。
健一の、新境地での生活が、今ここから始まった。
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