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【片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜】  作者: 恋せよ恋
南インド編 カレーの香りと、パンジャビドレス

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第59話 ◇ 男二人のリビングと、逃した魚

 自宅マンションの玄関の鍵を開けると、リビングの奥から慎二の「お帰りい」という呑気な声が迎えてくれた。


「珍しいね。急に飲み会なんて。楽しかった?」


 ダイニングテーブルの上には烏龍茶のボトルとグラス、そしてインスタントのカップスープが置かれている。夕飯代わりなのだろう、テイクアウトの牛丼を豪快にかき込みながら、慎二がのんきに声をかけてきた。


「ああ。お前、今晩も牛丼か? たまには野菜も食えよ。栄養が偏るぞ」


「はーい。野菜スープ飲んでるよ、ほら。兄貴から母さんみたいな小言を言われるなんてね。年取ったな、兄貴も」


「ふん。お前だって、もうアラサーだろうが。人のこと言える年齢かよ」


「で、誰と飲みだったのさ」


 慎二は美味そうに紅生姜まみれの牛丼を咀嚼しながら、さらに問いかけてくる。


「ああ……小野田係長だ。直属の上司だし、これまで色々と世話になったからな。最後に個人的に誘ってもらえて、嬉しかったよ」


 健一の口元に浮かんだどこか素直に嬉しそうな様子を見て、慎二の表情も自然と緩んだ。


「そう。じゃあ、良かったね。これでスッキリとジャカルタへ旅立てるわけだ」


「ああ。同期とも飲んだし、職場の壮行会も無事に終わった。後はもう、本当に荷物をまとめて旅立つだけだな」


 健一は上着を脱いでハンガーにかけ、ネクタイを外すとソファの背に置いた。シャツのボタンを緩め、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出してくると、そのままソファへ深く腰を下ろす。


 そして、プシュッと小気味いい音を立てて缶を開けると、乾杯と言わんばかりに慎二の方へ一度突き出し、それから美味そうに喉を鳴らして一口飲んだ。


「……それと、もう一つ、いいことがあった」


「なに? いいことって」


「問題の女が、結婚するそうだ」


「ん? 問題の女って……あの、兄貴の浮気相手だった派遣の女子社員が?」


 慎二の手がピタリと止まる。


「……ああ。その女がだ」


「随分と急展開だね。だって、つい二週間前まで兄貴のこと執拗に狙ってたんじゃないの? ストーカーまがいのことまでしてさ」


「ああ。要するに、最初から二股だったんだろうな。……まあ、人のことは言えないがな」


「ぷっ――! ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ!」


 慎二が盛大にカップスープを吹き出した。


「お前、きったねえなあ! ソファにこぼすなよ、それ、すみれのお気に入りだったんだから。……まあ、もういいけどさ」


「はあ……死ぬかと思った。兄貴、急に自虐に走って笑わせないでよ。――で、その二股の相手、可哀想な旦那さんは誰なのさ。それも兄貴の知り合い?」


「まあ、取引先だから……知り合い、になるのかな。佐々岡技研の、専務の息子さんだそうだ。うちの会社との担当をやってたらしい」


「へえ。それはそれは。でもさ、その旦那さんは彼女の社内での噂を知らないのかな? ちょっと誰かに聞いたらすぐにヤバい奴だって分かりそうなものだけど。だって、いいとこのボンボンなんだろ? 普通、親御さんが裏で身辺調査したりしないの? あ、これドラマの見過ぎかな」


「いや。どうやら息子本人が彼女に完全にその気らしいから、親も止められなかったんだろうな。まあ、あの女、性格は最悪だが、見た目だけは無駄にいいからな」


「ははは。面食いの兄貴が言うんだから、相当な美人なんだろうね。なんか、色々複雑だけどさ」


 健一は、ニヤニヤしている慎二を軽く睨みつけた後、残りのビールを一気に飲み干した。口元を拭うその表情には、自分を縛り付けていた美咲という呪縛からようやく解放された、確かな安堵が滲んでいた。


「……それよりお前、昨日、すみれのInstagramにコメント残しただろう」


 健一がぽつりと言い出すと、慎二は「あ、見てくれた!」と顔を輝かせた。


「そうなんだよ、すみれさん、今マレーシアにいるんだね。いつものテディベアが、ローカルなチキンライスと一緒に写真に映ってただろう?」


「ああ。いかにも彼女らしい、綺麗な生地のチョイスだよな。あれ、すみれが前にいたアパレルブランドのイメージカラーだ……。本当に気に入っていた職場だったのにな」


 画面越しに見たすみれの旅の画像を思い出し、健一は切なげに目を伏せた。自分の身勝手な過ちが、彼女のキャリアも、お気に入りの生活も、すべて奪ってしまったのだ。


「まあね。そこに関しては、兄貴にはこれから一生かけて十分に反省してもらわないとね。とは言え、今は未練に浸るより、一週間後の出国準備の方が大事じゃない?」


「ああ、わかっているよ。……ありがとう」


「うわあ!」


 慎二が本気でのけぞり、牛丼高く掲げた。


「兄貴が『ありがとう』だなんて、どうしちゃったんだよ。いつも強気で、高いところから他人を見下ろして鼻で笑ってるのが兄貴じゃん」


「お前、俺をなんだと思ってるんだ。俺だって、一応は手痛い失恋をしたばかりの独身アラサー男子なんだよ」


「げえ。兄貴に失恋なんて言葉、世界一似合わないよ」


 慎二は残った牛丼を綺麗に平らげると、最後にフッと優しい笑みを浮かべた。


「でも、まあ。人生無敗だった兄貴にとって、その初めての失恋も、いい経験になったんじゃない? ……まあ、逃した魚は、めっちゃ希少種の高級魚だったけどね」


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