第58話 ◇ 炉端焼きの煙と、焦燥の味
ジャカルタ赴任まで、いよいよあと一週間に迫っていた。
すみれと暮らしていたマンションには、入れ替わりで弟の慎二が引っ越してくる。少しずつ荷物が運び込まれ、主を失ったはずの空間が徐々に男所帯の空気へと塗り替えられていくのを、健一はどこか他人事のように眺めていた。
職場での業務は、文字通り目まぐるしい怒涛の連続だった。
連日のように、赴任先である現地法人のスタッフや、日本のプロジェクトチームとのリモート会議が組まれる。画面越しに共有されるのは、ジャカルタの最新の治安情勢や経済動向、それから健一が現地で責任者の一人として携わることになる、大規模ショッピングモール建設の進展状況だ。
予定通りに進んでいる部分もあれば、現地の資材調達の遅れや、スタッフ間での情報共有の不手際など、山積する諸問題も次々に浮き彫りになる。それらの課題を一つずつ整理し、引き継ぎの資料に落とし込んでいく作業は、健一の神経を確実にすり減らしていった。
そんなある日の夕方、デスクで膨大なデータと格闘している健一の背中に、ぽんと手が置かれた。
「佐藤、赴任前で忙しいだろうが、どうだ。今晩よかったら、景気づけに一杯いかないか?」
振り返ると、そこには温和な笑みを浮かべた上司の小野田係長が立っていた。
「あ、はい。ありがとうございます。……ぜひ、ご一緒させてください」
どんなに荷造りや書類作成が忙しかろうが、お世話になった上司の誘いを断るという選択肢は健一にはなかった。
小野田係長は、非常に気さくで部下思いの、実に働きやすい上司だった。独善的になりがちな社内の派閥争いとも距離を置き、主任である健一のこれまでの実績や仕事ぶりを、常に正当に評価して引き上げてくれた恩人でもある。今回のジャカルタ赴任も、小野田の強い後押しがあったからこそだった。
――いや、世間体よく『海外赴任』などと言ってはいるが、実際には本社の中枢業務から外され、関連会社へ送り出される形の出向だった。
すみれを失い、さらにキャリアの表舞台からも一時的に外される。その事実は健一のプライドを酷く傷つけていたが、それでも現地でのプロジェクト自体は大規模で、やり甲斐のある赴任であることには変わりはなかった。ここで結果を出して、必ず本社に返り咲いてみせる。それだけが、今の健一の支えだった。
二人がネオンの灯り始めた街へと繰り出し、連れてこられたのは、駅裏の路地に入ったところにある炉端焼きの居酒屋だった。
ガラガラと引き戸を開けると、客たちの活気と香ばしい醤油と炭火の煙が店内に充満している。
「いらっしゃい!」
威勢のいい店員の声に迎えられ、カウンターの席に腰を下ろす。店内は、自分たちと同じように一日の激務を終えたばかりの、スーツ姿のサラリーマンたちで混み合っていた。誰もが仕事の愚痴や他愛のない世間話に花を咲かせている。
「まずはお疲れ様。現地に行ったらこんな風に気軽に日本の居酒屋にも来られなくなるからな。今日は遠慮せず食ってくれ。――よし、乾杯だ」
「はい、ありがとうございます。乾杯」
運ばれてきたばかりの、表面に白い泡がこんもりと載った中ジョッキを重ね合わせる。
健一は乾いた喉を潤すように、冷え切ったビールを勢いよく喉へと流し込んだ。
「ふう。うまい……!」
五臓六腑に染み渡る苦味に、健一は思わず深く息を吐き出した。
アルコールが全身を巡り、張り詰めていた脳の緊張が少しずつ解けていくのを感じる。
「どうだ、荷造りは進んでいるか? 前任者が生活用品はそのまま引き渡してくれるそうだから、最低限の衣類だけで大丈夫らしいな」
小野田が焼き鳥のつくねを口に運びながら、温かい目を向けてくる。
「はい。本当に助かってます。ジャカルタは大都市ですし、赴任先のマンションの近くには大型スーパーもあるようなので、現地調達でも不便はなさそうです」
「そうか。まあ、お前は独り身だからな、現地に行けばなんとかなるだろう」
「はい……」
独り身、という言葉に健一の胸がちくりと痛む。本当なら、すみれと夫婦になっているはずだった。その幸せを自らの手で木端微塵に破壊した報いを、今もこうして受け続けている。
ごくり、と健一がビールを飲み干した、その時だった。
小野田がふっと声を潜め、カウンターの横に座る健一をヒタと見据えた。その目の奥には、上司としての鋭い光が宿っている。
「――例の、派遣社員の須藤さんとの一件についてだが……何か続報は聞いたか?」
その単語が出た瞬間、健一の全身の血がすっと引いていくような感覚がした。須藤美咲が社内で言いふらしているという、あの忌々しい交際疑惑の噂のことだ。
「え?……あの、須藤さんが自分と交際していると言い触らしている噂のことでしょうか? 一応、同期の前田から聞いて、親しい連中には否定のメッセージを送りましたが……」
「いや。その噂だが、どうやら二週間前までの話らしいぞ」
小野田はジョッキを置くと、声をさらに低くした。
「俺も流石に気になってな、その後、営業部の連中にも聞いてみたんだが――そうしたら、どうやら彼女、近々結婚するらしい」
「は?」
健一の口から、間の抜けた声が漏れた。あまりにも突拍子のない言葉に、脳の理解が追いつかない。
「結婚……ですか? まさか、その相手というのは、自分と、でしょうか?」
ジャカルタ行きを盾に、強引に婚姻届でも送りつけてくるつもりか。最悪の結末を想像して背筋を凍らせる健一に、小野田は首を横に振って苦笑した。
「いや、違う。さすがにジャカルタ赴任のお前を追いかけるのは無理だと諦めたんだろうな。相手はうちの取引先である、大手の『佐々岡技研』の専務のご子息だそうだ」
「佐々岡技研……ですか。中堅どころの堅実な取引先ですね。いったい、どうやって」
「あそこの、うちの会社との窓口担当が専務の息子だったそうだ。要するに、お前からそっちへ乗り換えたってことだろうな」
健一は絶句した。あれほど自分に執着し、すみれから略奪してまで手に入れようとしていたのに、美咲はジャカルタ赴任が決まった途端、あっさりと別の男へ乗り換えたのだ。そのあまりの変わり身の早さと強かさに、寒気すら覚える。
「ですが……あそこは確か、絵に描いたような一族経営の古い会社ですよね。いくら専務のご子息だとはいえ、社内でよからぬ噂のある派遣社員との結婚を、厳格な親族がそう簡単に許すとは思えませんが……」
「ああ、それな。どうやら、そのご子息は自分のルックスに強いコンプレックスがあるらしいんだ」
「コンプレックス……ですか?」
「ああ。まあ、なんと言うか、ちょっと人よりかなり体格がいいタイプでね。お世辞にも女性にモテるタイプじゃなかった。そこへ、あのモデル並みの容姿を持つ彼女が、これでもかってくらい猛アタックを仕掛けたらしい。どうやら、乗り気なのは完全に男側の方らしいぞ」
「はあ……」
健一はただ、呆然と頷くしかなかった。
美咲にとって、結婚相手の男が誰であるかは、最初から重要ではなかったのかもしれない。ただ「自分を引き立ててくれる優良企業の男」であり、「贅沢な暮らしを保障してくれる身分」であれば、健一でなくても良かったのだ。自分は単に、彼女の人生の踏み台にされかけただけに過ぎない。
「まあ、何はともあれ良かったじゃないか。これで変なトラブルに巻き込まれることもなく、スッキリした気持ちでジャカルタに行ける」
小野田が「ハハハ」と笑いながら、健一の肩をバシバシと叩く。
「はは……は。そうですね。その男性には……ぜひ、幸せになってもらいたいです」
健一は引きつった笑みを浮かべ、再びビールを口に運んだ。
美咲という爆弾が自分から離れていった安堵感はある。しかし、あれほど大騒ぎして自分に執着していた元凶が、何食わぬ顔で次の玉の輿に乗ろうとしている理不尽さに、胸の奥がひどくモヤモヤとした黒い感情で満たされていく。
そして何より、そんな醜い人間模様の渦中に自分を落とし込み、すみれという本物の輝きを失ってしまった己の愚かさが、冷え切ったビールの味と共に、どこまでも苦く喉を通り過ぎていった。
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