第56話 老舗のオアシスと、琥珀色の誘惑
腕時計の針は、午後の二時半を少し過ぎたところを指していた。
一瞬の再会劇に沸いたものの、じっとりと肌を焦がすムンバイの猛暑が限界を迎えたのは三人とも同時だった。このままでは三人揃って干からびてしまう。
「とにかく、どこか冷房の効いた店に避難しましょう!」
ナナちゃんの切実な提案に、私と、そして偶然の再会を果たした片山さんも激しく同意した。
私たちが目指したのは、インド門周辺に広がる活気あふれる商店街『Colaba Causeway コラバ・コーズウェイ』。アンティーク雑貨やインドらしい衣料品、色鮮やかなアクセサリーが所狭しと並ぶストリート散策の名所だ。けれど、今ばかりは軒を連ねるお土産物には目もくれず、熱波を避けるようにして足早に進む。
十分ほど歩いたところで、お目当ての看板が見えてきた。
1871年創業の超有名老舗店、『Leopold Cafe レオポルド・カフェ』だ。すごく有名なおすすめ店で、『カフェ』という響きから想像するのとは少し違い、一歩足を踏み入れると、そこは歴史を感じさせる大衆レストラン、あるいは活気ある居酒屋といった風情の賑やかな空間だった。
「すみれさん、一階は冷房がないみたいです! 二階へ行きましょう!」
ナナちゃんがすかさず階段を見つけて先導する。今の私たちにとって最優先事項は、「冷房」の二文字だった。扇風機がぬるい風をかき回す開放的な活気に溢れる一階を素通りし、私たちは吸い込まれるように二階へと向かった。
重い扉の向こうから、ひんやりとした涼風が吹き抜けてくる。
「ああ、生き返る……」
誰からともなく安堵のため息が漏れた。案内された席につき、汗を拭いながら大きなメニュー表を開く。さすが歴史ある有名店だけあって、本場のインドカレーはもちろん、炒飯などの中華料理から、サンドイッチのような軽い洋食まで、驚くほどバラエティ豊かな料理が並んでいた。
そのメニューの隅にあった「ある文字」を見つけた瞬間、ナナちゃんが弾けたような声をあげて身を乗り出した。
「わあ! すみれさん、見てくださいこれ! ビールがありますよ、ビール!」
「本当ね、冷えたビール……」
メニューに躍る『BEER』の文字に、私の喉が思わず、ごくりと鳴った。
インドでは宗教的な理由から、一般的な食堂やカフェでお酒を置いていない店も多い。ここムンバイは大都市だけあって、多くのレストランでビールを提供している。この猛暑のなかを歩き回ったあとに、冷房の効いた空間で冷えたビールを飲めるなんて、これ以上の贅沢があるだろうか。
黄金色の泡を想像してうっとりしかけた私だったが、ふと我に返ってナナちゃんの顔を見た。
「美味しそうね……。でも、ナナちゃんってアルコールは大丈夫? そういえば、一緒にいてまだお酒を飲んでいる姿を見てない気がするんだけど」
旅の相棒の意外な一面を思い出し、私は小首を傾げて問いかけた。
私の問いかけに対し、ナナちゃんが口を開くより先に、片山さんが悪戯っぽく笑いながら声を挟んできた。
「ナナちゃんはね、こう見えてなかなかの酒豪なんですよ。僕の友人と一緒に、プロジェクトをやってた頃の飲み会でも、彼女が潰れた姿なんて一度も見たことがないですからね。むしろ、周りの男連中を次々に酔い潰してる姿ならよく見ましたけど。ははは!」
「もう! 片山さん、何言ってるんですか!」
ナナちゃんは顔を真っ赤にして、ポカポカと片山さんの腕を叩いた。
「変なこと言わないでください! すみれさんに嫌われたらどう責任とってくれるんですか? 私、すみれさんのことが本当に大好きなんだから!」
「ははは、ごめんごめん。つい懐かしくてさ。でも俺、嘘がつけない性分なんだよ」
「もう、最悪です!」
ぷりぷりと怒ってみせるナナちゃんと、それを器用にいなす片山さん。二人のテンポのいい掛け合いを特等席で見つめながら、私は、『本当に仲が良くて、お互いを信頼している関係なんだな』と温かい思いを巡らせていた。
「――それで、ナナちゃん。そろそろ、そちらの素敵な女性を紹介してくれないかな?」
ひとしきり笑ったあと、片山さんが居住まいを正して私を見た。
「あっ、すいません! お喋りに夢中になっちゃって。片山さん、こちらは小川すみれさん。私がマラッカでナンパ……じゃなくて、運命の出会いをした最高のお姉さんです。すみれさん、こちらは映像エディターの片山大志さんです」
「小川すみれと申します。先ほどは突然のことで驚いてしまって失礼しました」
「いえいえ、怪しい男だと思われて当然です。片山大志です。よろしくお願いします」
紹介を受けて、私たちは改めてお互いに名乗り合い、丁寧な挨拶を交わした。片山さんの柔らかい笑顔のおかげで、初対面の男性に対する警戒心と、ずっと張り詰めていた旅の緊張が、驚くほど自然に溶けていくのを感じる。
注文したビールと料理がテーブルに運ばれてくると、ナナちゃんは私との出会いを身振り手振りを交えて楽しそうに語り始めた。マレーシアのマラッカでの出会い、そしてそこからどうして一緒にムンバイへ来ることになったのか。少し大袈裟に、けれど熱を込めて話すナナちゃんに、片山さんもニコニコと相槌を打っている。
「それにしても、片山さんはどうしてこのムンバイにいらっしゃるんですか? お仕事ですか?」
私がふとした疑問を口にすると、片山さんは苦笑しながらジョッキを傾けた。
「ああ、今回はコウの応援、というか、お助け要員だよ。なんか、動画の編集データが溜まりすぎて完全に追い詰められたらしくてさ。日本にいる僕のところに『ヒロシ、ムンバイに来い!』って切実なSOSが入ったんだ。だから、バケーションってことで、ムンバイまで来たってわけさ」
「えっ! コウさん、今ムンバイにいらっしゃるんですか?」
ナナちゃんが驚いて声をあげる。
「うん。半年くらい前かな……デリーからこっちのムンバイに拠点を引っ越したんだよ」
「へえ、そうだったんだ。このインド旅の最中に、タイミングが合えば連絡してみようかなって思ってたんですけど。じゃあ、もしかしたら今回お会いできるかもしれませんね!」
嬉しそうに声を弾ませるナナちゃんを横目に、置いてけぼりになっていた私へ、片山さんがハッとしたように向き直った。
「あ、すみません、すみれさん。説明なしに名前を出してしまって。コウっていうのは、アジアを中心に世界中を旅している旅系YouTuberでね。その界隈ではなかなかに有名なヤツなんですよ」
「あっ、ごめんなさい、すみれさん! そうなんです。コウさんって、世界を旅するYouTuberのなかでは、登録者数も100万人を超えていて本当に有名な方なんです」
そう言いながら、二人がそれぞれのスマートフォンを操作して、私に『コウ』さんのYouTubeチャンネルの画面を見せてくれた。
光る液晶画面の中で、白い歯を見せ、快活に笑顔を決めているのは、綺麗に整えられた髭面の、ワイルド系のイケメン男性だった。背景には、まさに今私たちがいるような、熱気あふれるアジアの街並みが映し出されている。
「たくさんのYouTuberの方がいらっしゃるんですね。皆さん、海外で暮らしているんですか? ナナちゃんは、日本が拠点なの?」
私が、いまさらのように尋ねると、片山さんが意外そうな表情を浮かべた。
「あれ? 二人は、お互いのことは話してないのかな?」
「そうですね。女性らしく『恋バナ』はしてますけど、細かいプライベートまでは、まだ。これからですよね、ねっ!すみれさん」
「ふふふ。そうね、まだ、これからよね」
涼しい冷房と、美味しいビールに心も口も軽くなっていく。
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