第55話 アラビア海の再会と、ナナの別の顔
「あっ、えっと……日本の方ですよね? 驚かせてしまったかな。突然、声をかけちゃって、すみません」
男性は少し慌てたように、その大きな体を一歩後ろに引いて、両手をパタパタと動かした。立派な体格に反して、その雰囲気は驚くほど柔らかい。慌てたように眉を八の字に下げるその表情には、隠しきれない人の良さが全面に滲み出ていた。
「あ、はい。日本人です。ええと……」
私は戸惑いながらも、じっと男性を見つめた。異国の地、それもムンバイの雑踏でピンポイントに「ナナちゃん」の名を呼ぶ日本人。警戒しない方が無理というものだ。
「ナナちゃんのお知り合いの方ですか? それとも……動画の視聴者さん、でしょうか?」
私のどこか警戒するような気配を敏感に察したのだろう。男性は「違います違います!」と言わんばかりに頭を左右へ振り、顔の前でワイパーのように激しく手を振った。その勢いで額に滲んだ汗が飛び散りそうになる。灼熱の陽射しの下、ただ立っているだけでも汗ばむ暑さだというのに、慌てたせいで余計に汗をかいているようだった。
「いやいやいや! 追っかけとか、熱烈なファンの類じゃないから安心してください! 僕はその、彼女の『同僚』のようなものです」
「同僚……? ということは、あなたもYouTuberなんですか?」
彼から飛び出した予想外の返答を受け、私の疑問がそのまま口を突いて出た。
「いや、YouTuberじゃなくて。僕は裏方の人間です。友人の映像編集を手伝っていて、動画のカットやテロップ入れ、最終的な仕上げを担当しています。簡単に言えば、皆さんが見る映像を完成させる仕事ですね」
「そうなのですね。すみません、私、あまりその分野の業界に明るくなくて……」
ペコリと頭を下げると、男性は意外そうに目を丸くした。
「あれ? てっきり僕は、あなたがナナちゃんのスタッフの方なんだと思っていました。ほら、機材の入ったバッグを持って、ずっと後ろから彼女の撮影をサポートされているようだから。てっきり新しく付いたマネージャーさんかと思って、声をかけちゃいました」
「マネージャー……? ナナちゃんに、マネージャーさんがいるんですか?」
今度は私が目を丸くする番だった。
確かに彼女の動画制作のスキルやフットワークの軽さは有名YouTuberだからこそだと素人の域を超えていると思っていたけれど、まさかマネージャーが付くような立場の人間だとは夢にも思わなかったからだ。
「ああ、ええと。少なくとも一年前、僕が彼女を紹介された時期には付いていましたよ。事務所の人がスケジュール管理とかしていましたし。……今はどうなのかな、契約が変わったのかもしれないけど。彼女、YouTuberだけじゃなくて、時々、メディアに出たり、モデル業もこなすから」
「メディア? モデルも、ですか……?」
「ええ。確か、今年の東京ガールズコレクションにも出てたんじゃないかな。過去にも何回かランウェイを歩いているはずですよ。だから、てっきりそっちの関係の……」
「TGCに……!? ナナちゃんって、芸能人だったんですね。すごい……」
私はナナちゃんのあまりにも華やかすぎる新事実に、思わず素っ頓狂な驚きの声をあげてしまった。
東京ガールズコレクションといえば、お洒落に敏感な女性なら誰もが知っている日本最高峰のファッションイベントだ。そんな大舞台のランウェイを歩くような女の子が、なぜ今、インドの猛暑の中でパンジャビドレスを着て、私なんかと一緒にマックのポテトを食べて喜んでいるのだろう。と言うか、そんな女性に、パンジャビドレスの色味を選んで、サイズを調整したなんて。
(ナナちゃん、『自分の体にこんなに綺麗に合う服、生まれて初めて着ました!』って言っていたのに、モデルさんだったんじゃないの! 私が恥ずかしいわ)
頭の中に羞恥心が浮かび、処理が追いつかずに立ち尽くしていると、私たちのやり取りが目に入ったのだろう。遠くの方でカメラを回していたナナちゃんが、こちらを向いてパタパタと笑顔で手を振っているのが見えた。
彼女はGoProを回したままの状態で、器用に人混みを避けながら、早足でこちらへと進んでくる。その歩き方すら、心なしか洗練されたモデルのウォーキングのように見えてしまうのは、私の現金なところかもしれない。
「片山さん――っ!!」
近づいてくるなり、ナナちゃんが弾けたような大声をあげた。普段の動画用のトーンよりも、さらに一段高い、心からの驚きが混じった声だ。
「片山さん! お久しぶりです! どうしたんですか、まさかこんなムンバイのインド門のど真ん中でお会いするなんて。すごすぎます! えっ、こっちでお仕事ですか?」
ナナちゃんは信じられないものを見たというように目を輝かせ、片山と呼ばれた男性の前で立ち止まった。先ほどまでの仕事モードの表情はどこへやら、完全にプライベートの、二十三歳の女の子の顔に戻っている。
「いやあ、本当に奇遇だよね。ナナちゃんがアジアに来てるのはSNSで見て知ってたけど、まさか今日この時間にインド門にいるとは思わなかったから、僕もびっくりだよ」
片山さんは髭を撫でながら、ようやく緊張の解けたような柔らかな笑みを浮かべた。
灼熱のインド門、飛び交う異国の言語。
そのエネルギッシュな喧騒のなかで、私はナナちゃんの新たな一面を知り、そして、この旅を少しだけ面白くしてくれそうな人物と出会った。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




