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【片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜】  作者: 恋せよ恋
南インド編 カレーの香りと、パンジャビドレス

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第53話 青空の下の洗濯場と、変わらない味は

 涼しいホテルのロビーでスマートフォンの画面をタップし、Uberの配車アプリを確認する。ものの数分で、一台のコンパクトカーがエントランスへと滑り込んできた。

 インドの街中でよく目にする、丸みを帯びたどこかレトロな佇まいが可愛い国産車だ。日本のスズキと提携しているお馴染みの国民車らしく、どこか親しみやすさもある。


 画面に表示された車種とナンバープレートを確認し、運転席の気の良さそうなおじさんに「ナナ?」と名前を確認して、私たちは後部座席へと乗り込む。


「海外の移動でUberが使えるのって、本当にありがたいですよね。ぼったくられる心配もないし、行き先を英語で説明する手間も省けますから。それに、なにより安全ですもんね!」


 シートベルトを締めながら、ナナちゃんがホッとしたように笑う。


「それにしても……『ナナ』って、インドの人にとっても聞き取りやすくて発音しやすいみたいで、一発で通じるから助かります」


「そうね。私の『すみれ』はちょっと聞き返されることが多いから、羨ましいわ」


 私たちが日本語でそんな会話をしていると、バックミラー越しに目が合った気のいいドライバーのおじさんが、独特のインド訛りの英語で気さくに話しかけてきた。


“Oh, your name is Nana? Yeah, that’s actually a pretty common name in India.”

『お嬢さん、君の名前は『ナナ』っていうのかい? それはインドではとても馴染み深い響きだよ』


「えっ、本当ですか?」


 ナナちゃんが身を乗り出すと、おじさんはハンドルを握りながら楽しそうに教えてくれた。


“Well, in Hindi, ‘nana’ is your mom’s father — your maternal grandpa. And the pronunciation can even make it sound a bit like ‘father’. So yeah, it’s a pretty warm, familiar word.”

『ああ。ヒンディー語で『ナナ(Nāna)』はね、お母さん方のおじいちゃん、つまり『母方の父』っていう意味があるんだ。それに、発音のニュアンスによっては『お父さん』って意味にも聞こえる。だから、とても親しみやすい名前さ』


「わあ、面白い! おじいちゃんにお父さんですか。でも、変な意味や悪い言葉じゃなくてよかったです」


 ナナちゃんがケラケラと笑う。それにつられて、おじさんも白い歯を見せて笑った。


“What about you, miss?”

『じゃあ、そっちのお嬢さんは?』


「私は『すみれ』です」


 おじさんは、うーんと少し首を傾げた。


“Sumira? Yeah, that’s a name you do hear for women in India. But ‘Sumire’ feels a bit more foreign-sounding.”

「スミラ(Sumira)かい? スミラならインドでも女性の名前としてあるけれど、スミレだと少し外国人の名前っぽく聞こえるね」


「じゃあ、インドにいる間は、私は『スミラ』でいいわ」


 私がそう言うと、ナナちゃんが「『スミラさん』、響きが現地っぽくて素敵です!」とはしゃいだ。そんな他愛のない会話だけで、車内の空気は一気に和んでいく。



 最初の目的地は、世界最大の屋外洗濯場として有名な「Dhobi Ghat ドービー・ガート」だ。


 事前にスマートフォンで検索したところ、ホテルからの距離は車で十五分ほどと表示されていた。けれど、おじさんいわく「ムンバイの渋滞は生き物だからね、捕まれば三十分以上はかかるよ」とのことだった。


 おじさんの言葉通り、車は進んだと思えばすぐに強烈なクラクションの洪水と渋滞の波に捕まる。それでも、窓の外に広がる色鮮やかなスパイスの看板や、せわしなく行き交う人々のエネルギーを眺めているだけで退屈はしなかった。車はところどころで軽い渋滞に巻き込まれつつも、二十五分ほどで無事に目的地へと到着した。


“Alright then, Nana, Sumira—safe trip!”

「良い旅をね、ナナ、スミラ!」


 おじさんと笑顔で握手を交わして別れを告げ、私たちは車を降りた。

 ドービー・ガートの入り口に立つと、すぐに一人の男性が近づいてきた。自称「公式ガイド」を名乗るおじさんだ。怪しさは否めないけれど、敷地内を安全に効率よく回るためには案内を頼んだ方が無難だろうと判断し、いくらかの料金を交渉して案内をお願いすることにした。


「すみれさん、カメラ回しますね!」


 ナナちゃんは手際よくYouTubeの撮影許可を取り、嬉々として小型カメラを構えて歩き始める。私は彼女の邪魔にならないよう、貴重品の入った荷物を代わりに持ったり、「ナナちゃん、足元、段差があるから気をつけて」と小さく声をかけたりしながら、アシスタントとして一歩後ろを進んだ。


 道路から見下ろすドービー・ガートの風景は、まさに圧巻の一言だった。

 見渡す限り四角いコンクリートの洗濯槽が整然と並び、その中で無数の男たちがバシャバシャと豪快に衣類を叩きつけて洗っている。そして、見上げるほどの高さに張り巡らされたロープには、白、青、赤、黄色と、色とりどりのシーツや衣服が、南国の強い太陽を浴びて風にたなびいていた。


 パタンナーとして、これまで膨大な布地や衣服に触れてきたけれど、これほど泥臭く、圧倒的な人間の生活の熱量を感じる「布の海」は見たことがない。胸がじんと震えるような光景だった。


 ふと視線を移すと、すぐ近くの線路を、信じられないことに「すべての扉が開いたまま」の列車が、凄まじいスピードで走り去っていくのが見えた。開いたドアの縁には、多くの人々が鈴なりになって掴まっており、今にも振り落とされそうななかなかに危なそうな光景だ。


 日本なら大ニュースになるレベルの危険さなのに、ここではそれが日常なのだろう。不思議と「うん、すごくインドっぽい」と妙に納得してしまっている自分がいた。


 一通り案内が終わった頃、ガイドのおじさんが、ニヤリと意味深な笑みを浮かべてさらなる追加料金を要求してきた。


“There’s a ‘special place’ beyond this point that normal tourists don’t get to see. I can take you there—interested?”

「ここから先は、普通の観光客じゃ入れない『特別な場所』があるんだ。そこへ案内してやるよ。どうだ?」


 典型的な観光地ビジネスだ。私はカメラを一度下ろしたナナちゃんに声をかけた。


「ナナちゃん、動画の撮れ高はどう? もし動画の素材としてどうしてもその特別な場所が必要だったら、追加料金を払って進んでもいいけど、どうする?」


 ナナちゃんは少しの間、液晶画面を確認して、小首を傾げた。


「うーん。道路からの全景も、中での洗濯の様子もバッチリ撮れました! 取れ高としてはもう十分すぎるくらいなので、これ以上は大丈夫です」


「そう。じゃあ、おじさんには悪いけど、ここで終了でいいわね」


「はい。大丈夫です!」


 私たちはそれ以上の引き留めを断り、少し渋るおじさんの手に、ガイド料ときちんとした額のチップを握らせて笑顔で別れを告げた。おじさんも、チップの額を見ると最後は白い歯を見せて「サンキュー」と手を振ってくれた。



 次の目的地は、ムンバイの象徴である「Gateway of India インド門」だ。ここからまたUberを呼べば、二十分ほどで着くらしい。

 配車を待つ間、容赦なく照りつける太陽の光に、二人の額からじわりと汗がにじむ。すると、ナナちゃんが私の顔を見て、ちょっと悪戯っぽく微笑んだ。


「すみれさん。……ちょっと、マック食べたくないですか?」


「マクドナルド?」


 予想外の提案に、私は目を丸くした。


「はい! インド門の近くにあるみたいなんです。冷たい飲み物も飲めるし、間違いなくエアコンが効いていて涼しそうですし。何より……」


 ナナちゃんはきゅっとお腹を押さえた。


「インドのカレー、めちゃくちゃ美味しいんですけど……そろそろ、ちょっとだけ懐かしい味も恋しくなってきませんか?」


 その言葉に、私は思わず、あはっと声を立てて笑ってしまった。


「わあ、いいわね。大賛成。スパイスの効いた本場の料理は刺激的で最高だけど、確かにあの慣れ親しんだ味が恋しくなるわよね」


「はい! 不思議ですよね、海外に出ると、日本でも食べるマックってなんか無性に食べたくなりますよね」


「ふふふ。そうね。世界中どこに行っても変わらない、あの味が恋しくなるのかしらね」


 私たちは冷たいコーラとフライドポテトを思い浮かべながら、涼しいマクドナルドを目指して、再びムンバイの熱気の中へと歩き出した。


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