第52話 ◇ 噂とビールと焼き鳥屋
健一は、仕事終わりに最寄りの駅を出たところで、偶然にも弟の慎二と出くわした。
「あれ、兄貴? 奇遇じゃん」
「慎二か。仕事帰りか?」
「うん。ちょうど今終わってさ。兄貴、この後空いてるなら飯でも行かない?」
前田との昼食以来、胸の奥にくすぶっていた美咲への苛立ちのせいで、健一は一人で家に帰る気になれなかった。誰でもいいから、この鬱屈とした気分を紛らわせたかった。
「……ああ。じゃあ、あそこに行くか」
二人が向かったのは、大学時代から通っている馴染みの焼き鳥屋だった。店内に一歩足を踏み入れると、香ばしい炭火の匂いが漂ってくる。壁際のいつもの二人掛けの席に腰を下ろすと、健一はメニューも見ずに店員を呼んだ。
「すいません。とりあえず生中二つ。あと焼き鳥の盛り合わせと、たこわさに枝豆、お願いします」
「はーい、生二つと盛り合わせ、たこわさ枝豆ね!」
威勢の良い店員の声とほぼ同時に、まずはスピードメニューの枝豆がテーブルに置かれた。
「そろそろジャカルタ行きの準備は進んでる?」
耳からAirPodsを外して鞄にしまいながら、慎二が何気ないトーンで尋ねてくる。目の前の枝豆を一つつまみながら健一の顔を正面から見つめる。
そこへ、キンキンに冷えた二つの生ジョッキが運ばれてくる。
「お疲れ」
「ういー、お疲れ」
健一は慎二とグラスを合わせると、よく冷えた生ビールをごくごくと一気に飲み干した。喉を鳴らして胃に流し込んでいく。しかし、それは決して美味しそうに味わう飲み方ではなかった。まるで、胸の中の苛立ちを押し殺し、アルコールで強引に流し込むかのような、健一らしくない飲み方だった。
いつもなら、どんな時でもどこかスマートで、大人の余裕を崩さないはずの兄である。その明らかにいつもとは違う険しい様子に、慎二はピタッと手を止めた。
「……何かあった?」
慎二の、少し心配そうな声が響く。
健一は空になったジョッキをテーブルに置くと、短く息を吐いた。
「あ、いや。……自業自得の些細な事だ」
「ふうん。……オンナ絡みかなんか?」
その言葉に、健一の動きがぴたりと止まる。健一は深く眉間に皺を寄せると、苦々しさに満ちた表情を浮かべて正面に座る慎二を見つめる。
「なんだよ。なんで、そう思った?」
兄のどこか棘を含んだ低い声に、慎二は怯む風でもなく、小さく苦笑を漏らした。
「だって、兄貴がそんなに分かりやすく機嫌悪そうなことなんて、普通はないだろ? いつも無駄にポーカーフェイス崩さないじゃん」
「……まあな。確かに」
健一はふっと視線を落とし、己の余裕のなさを認めるように呟いた。
「で? 何、彼女でもできたの?」
「は? そんなこと、あるわけないだろ。俺をなんだと思っているんだよ」
間髪を容れずに否定し、健一は追加で頼んだ二杯目の生ビールをグッと煽るように飲む。
「彼女じゃないとしたら……。んー、じゃあ、例の浮気相手と揉めてるとか? 結婚してとでも言われた? ほら、今回のことで結婚式も中止になって、優良物件の兄貴が完全にフリーになったわけだしさ」
慎二がからかうように言うと、健一はさらに顔を歪めた。
「……結婚式が中止になるような不祥事を起こした男が、優良物件な訳がないだろ」
「いやいや、世間一般のスペックで見たら、兄貴は間違いなく優良物件の部類だって。モデル級のイケメンだし、いつもファッション誌から飛び出してきたみたいなファッショニスタじゃん。おまけに誰もが知ってる優良企業勤務で、そんでもって、今は彼女なしの独身。間も無く海外赴任のキャリア組だしさ」
慎二の言葉は一見褒めているようだったが、今の健一には皮肉にしか聞こえなかった。
「お前、馬鹿にしてるだろ。……確かに、親から貰った容姿には恵まれてるんだろうけどな。それは、お前も一緒だろ」
健一は自嘲気味に呟き、手元のグラスを見つめた。
「俺が流行に敏感で、センスがいいと思われていたのは、全部すみれのおかげだ。彼女が髪型も服装も、何から何まで全てをアドバイスしてくれてたからな……。生活面だってそうだ。俺が自分の仕事だけに集中できるように、あの部屋の環境を完璧に整えてくれていたのは、すみれだったんだ……」
失って初めて、その環境が当たり前ではなかったことに気づかされる。自分の「洗練」は、すみれの細やかな愛情と努力の結晶だったのだ。
「まあね。すみれさんは、本当に兄貴に惚れてたからなあ。……もったいないことしたよね、兄貴」
「ああ、本当にな。返す言葉もないよ」
健一は、胸を衝くような後悔に目を瞑った。
「で、実際その『浮気相手』と揉めてるの?」
慎二が話を戻すと、健一は苦々しく吐き捨てるように言った。
「揉めてるというか……あっちが勝手に彼女ヅラして、俺と付き合ってるって噂を社内で言いふらしてる状態だ。今日、同期の前田から初めて教えられたから、今どこまでその噂が広がってるのか、全貌がわからない」
それを聞いた慎二は、露骨に顔をしかめた。
「うわあ。キモッ。うざっ。何それ、最低のヤバいオンナじゃん。兄貴、まじで女の趣味悪っ! あっ、でも、すみれさんは最高にいい女性だったけどさ」
痛烈な慎二の言葉が、健一の胸に突き刺さる。
「ああ。でも、まあ……あと二週間もすれば俺はジャカルタに発つし、このまま放置でいいだろ。向こうに行けば二年、最長で二年半は日本に帰ってこないしな。一応、社内の親しい奴らや誤解されたくない奴らには、噂を否定するメッセージをさっき送っといたし、実害はないはずだ」
自分に言い聞かせるようにそう語る健一に、慎二は冷ややかな、それでいて現実的な視線を向けた。
「本当に大丈夫? そういう思い込みの激しい女って、しつこいんじゃないの?」
「……でもな、よく考えてみろよ。アイツだって、すみれから慰謝料を請求されてもおかしくない立場だったんだぞ? 修羅場を見てるはずなのに、この状況でまだ俺と付き合いたいなんて言いふらすの、普通に考えてありえないだろ」
「まあね、普通の神経ならね」
慎二は運ばれてきた焼き鳥のねぎまを口に運び、一口食べてから言った。
「でもさ、それだけ兄貴のことが本当に好き……っていうか、執着してんじゃないの? 婚約者がいなくなって、むしろ『別れてラッキー』くらいにしか感じてないのかもよ。だって兄貴、よく考えてみなよ。結婚式を一ヶ月後に控えてて、婚約者がいながら浮気するような男と、平気で付き合う女だよ? 最初からまともな精神構造してないでしょ」
慎二の容赦ない正論が、健一の逃げ道を完全に塞いだ。
「お前……俺に対してわざと痛いところ突いて言ってるだろ? ……まあ、その通りだけどな」
健一はがっくりと肩を落とした。浮気をした自分もまともではないが、その結果として引き寄せた美咲という存在の異質さに、今更ながら恐怖を覚える。
重苦しい空気を払うように、二人は追加の生中を頼んだ。追加で運ばれてきたばかりの熱々の焼き鳥を口に運ぶ。タレの甘辛い味が、少しだけ健一の頑なな心をほぐしていった。
「で、慎二。お前、いつうちに引っ越してくる? 部屋の荷物は少しずつまとめてるから、掃除しとくし、いつでもいいぞ」
健一が話題を変えると、慎二はジョッキを置いて微笑んだ。
「ああ、サンキュー! 兄貴の出発の当日は、俺も見送りに成田まで行きたいからさ。少しずつ荷物を運んでおいて、出発の三日くらい前には完全に引っ越しを終えたいかなって思ってる」
すみれと暮らし、幸せな人生を始めるはずの分譲マンション。健一がジャカルタへ赴任している不在の間、空き家にしておくのは防犯上も、ローンの支払いを考えても得策ではないため、弟の慎二が代わりに住んでくれることになっていた。
すみれと選んだカーテン、すみれと悩んだ北欧風の家具。それらが残る空間に、自分ではなく弟が住む。
その事実に、健一はまた一つ、自分が失ったものの大きさを静かに噛み締めるのだった。
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