第51話 ◇ 男の知らぬ間に、外堀は埋まる
インド・ムンバイの爽やかな潮風がすみれの頬を撫でていた頃、日本の東京にある大手ゼネコン商社のオフィスは、じっとりとした梅雨の始まり特有の湿気と、それ以上に重苦しい「空気」に包まれていた。
健一は、クリーニングに出したパリッとしたワイシャツの袖をまくり、いかにも仕事ができる男といった風にパソコンの画面に向かっていた。時折、ふう、と大きく息を吐いては、眉間を寄せて瞼の上から両目の疲れを揉みほぐす。
健一とすみれの結婚式が、開催の一ヶ月前という異例のタイミングで突如中止になってから、早くも三週間が経とうとしていた。
社内において、結婚直前の破談というのは一大事だ。当然、上司や同僚たちは健一に対して腫れ物に触るような気遣いを見せていた。
「佐藤、無理はするなよ。辛いだろうが、今は仕事に集中して気を紛らわせろ」
「ありがとうございます。……すみません、ご心配をおかけして」
神妙な顔で頭を下げる健一の胸の内は、悲しみとは程遠い、微かな苛立ちがくすぶっていた。
二週間前に言い渡された一枚の辞令、『インドネシア、ジャカルタ支社への異動』は、赴任期間は最長で二年。大型ショッピングモールの建築プロジェクトだった。赴任に向けて事務手続きを慌ただしく済ます毎日。出発は今週末だが、さすがに送別会は遠慮した。
健一への救済のような形をとった、実質上の飛ばしだ。左遷とは言わないが、この時期の人事異動は異例とも言えた。前任者が体調を崩し、どうしても交代の必要が生まれたためだと説明を受けた。
(これでいい。みんな俺を『婚約者に捨てられた可哀想な男』だと思っている。すみれが悪く思われないなら、それでいい……)
だが、健一は決定的なことを見落としていた。
『何が原因で、あんな直前に式が中止になったのか』
その理由を、先日、きっぱりと別れを告げたはずの同じ部署の「浮気相手」であった後輩の美咲が、嬉々として社内に触れ回っているという事実は想像もできなかった。
「……ええ、そうなんです。私と健一さん――あ、嫌だ、会社では佐藤先輩って呼ばなきゃ。実は、私たちお付き合いしていて……」
給湯室や、ランチタイムの女子トイレ。健一の手が届かない場所で、派遣社員であり、二年間、同僚として同じ部署で働いていて、健一の浮気相手でもあった美咲は、頬を染めながら同僚たちにペラペラと「噂」を撒き散らしていた。
「本当はまだ、公にするつもりはなかったんですけど。でも、先輩も私のことがどうしても諦めきれなくて、お式を中止する決断をしてくれたみたいで……。あっ、でも! まだお式が中止になって日も浅いですし、先輩の立場もあるので、この話は絶対に内緒にしてくださいね! 私たち二人で、発表はもう少し落ち着いてからにしようって話してるんです」
美咲の口から語られるのは、彼女の脳内で都合よく変換された「真実めいた虚言」だった。
健一からすれば、美咲との関係は、『すみれと結婚するまでの最後の遊び相手』に過ぎず、結婚を白紙にする気など毛頭なかった。すべてはすみれにバレたから終わっただけなのだが、美咲の中では「健一が自分を選んで、婚約者を捨てた」という妄想に替わっているのだ。
彼女の話を聞かされる周囲の社員たちは、一応は「ええっ、そうなの!? 大変だったね」と話を合わせつつ、内心では冷ややかな目配せを交わし合っていた。
(要するに、佐藤さんが社内恋愛の浮気にうつつを抜かして、婚約者にブチ切れられたってことでしょ?)
(挙式一ヶ月前に浮気発覚で破談とか、男として最低すぎる……。しかもその浮気相手、もう自分が勝ち組気取りで喋り散らかしてるよ。タチ悪すぎ)
周囲にとって、これは給湯室での格好の暇つぶしのネタだった。派遣職員の美咲の性格の悪さと、健一の最低な行為は、またたく間に他部署にまで共有されていく。
しかし、噂というものは、内容がタチが悪ければ悪いほど、当事者の耳には直接届かないものだ。誰もわざわざ健一に向かって「お前、社内で浮気してたんだって?」と問い詰めるような真似はしない。
よって、健一の耳にこの噂が届くことは、ただの一度もなかった。
健一がオフィスの通路を歩くたび、周囲からは同情するような、それでいてどこか軽蔑するような、冷ややかな視線が向けられる。
彼はそれを、時期はずれの『ジャカルタへの異動』に対する同情と、婚約破棄という不祥事を起こした男への当然の冷ややかさだと思い込み、ただ黙って耐えていた。
そんな中、お昼時のチャイムが鳴り響いたオフィスの片隅で、同期の前田がひょっこりと顔を出した。
「よっ、健一。昼飯行こうぜ。たまには外の空気でも吸いに行こうや」
気まずそうに目を逸らす周囲の人間たちとは違い、いつも通りの軽いトーンで肩を叩いてくる前田の存在に、健一は救われるような思いで小さく息を吐いた。
「……ああ。そうだな。行こうか」
二人はオフィス街の喧騒から少し外れた、チェーン店の定食屋のテーブル席に腰を下ろした。
運ばれてきた生姜焼き定食に箸をつけながら、健一はどこか上の空だった。頭をよぎるのは、二週間前に言い渡されたジャカルタへの赴任命令、そして、何重にも鍵をかけたはずの自らの過ちだ。
「おい、健一」
前田が、水の入ったグラスを弄びながら、声をワントーン落とした。
「お前……今、社内でちょっとした噂になってるぞ」
健一は箸を止め、苦いものを噛み潰したような顔で自嘲気味に笑った。
「ああ。オフィスの空気を見れば分かるよ。『俺の浮気が原因で結婚式が中止になった』っていう、あの件だろ。身から出た錆、自業自得さ」
「いや、違う。もっと、タチの悪い噂だ」
「は? 最低な浮気野郎ってこと以上に、悪い噂なんてあるかよ」
健一が眉をひそめると、前田は周囲に目を配ってから、さらに声を潜めて言った。
「お前……同じ部署の派遣の女性社員と、今も付き合ってるんだって?」
「はあっ!?」
健一の声が思わず裏返った。定食屋の店員が驚いてこちらを見るのを察し、慌てて声を抑えながら前田に詰め寄る。
「なんだよそれ。誰がそんなこと言ってるんだ?」
「誰って……当の本人が、給湯室やら女子トイレやらで吹聴して回ってるんだよ。あの、ほら、美咲ちゃんだろ?」
その名を聞いた瞬間、健一の脳裏に、先日きっぱりと別れを告げたときの光景が苦々しく蘇った。
すみれに全てが発覚し、式が中止になった直後、健一は美咲を呼び出して「もう終わりだ」と告げた。その際、美咲からは烈火のごとく怒り狂った顔で頬に強烈なビンタを食らっている。健一の認識では、あの痛みをもって二人の関係は完全に破綻し、終了したはずだった。
「確かに、彼女とは……その、遊び相手だった時期はあるよ。最低なのは分かってる。でも、結婚式が中止になった時点で、俺からきっぱり別れを告げたんだ。もともとそれだけの関係だし、二度と二人っきりでは会わないって話もした。それなのに、なんで……」
「はあー。色男はこれだから困るな。お前の中では終わってても、向こうの中では全然終わってないらしいぞ。それどころかあの女、今お前と絶賛交際中だって触れ回ってる。しかもだ」
前田は呆れたように首を振った。
「自分と付き合っているからこそ、お前が婚約者との結婚式を直前で中止にしてくれたんだそうだ。もう完全に勝ち組のシンデレラ気取りよ〜、彼女」
「……なんだよ、それ……」
健一は目の前が暗くなるのを感じた。
美咲にとって、健一は容姿が整っており、仕事もできる自慢の「エリートの遊び相手」だった。結婚式をぶち壊した張本人であるという罪悪感など微塵もなく、むしろフリーになった健一を今度こそ自分のものにできるという、独りよがりな執着に火がついてしまったらしい。嘘も百回言えば真実になる、とでも思っているのだろうか。
「はあー……。面倒臭え……。いや、元はと言えば俺が全部悪いんだけどさ。……俺が、婚約者を裏切った事実は消えないんだしな。だけど本当に、うんざりだわ」
健一は深く背もたれに体を預け、両手で顔を覆った。
すみれを傷つけ、自分のキャリアもジャカルタ行きという形で傷ついた。激しい後悔の中でこれからの身の振り方を必死に考えている最中に、かつての遊び相手が社内でとんでもない嘘を撒き散らしている。
「お前、本当に大丈夫か? 異動前の身とはいえ、このまま放置してたらお前の社内評価、ジャカルタに行く前に完全にマイナス突き抜けるぞ」
前田の心配そうな声が、今の健一には遠くの雑音のようにしか聞こえなかった。
「どっちにしろ、俺は、もうすぐにジャカルタだ。噂に付き合う気はないよ」
自分が蒔いた種だ。それは分かっている。
けれど、自分の知らないところで美咲が嘘を撒き散らし、外堀がどんどん埋められていく不快感に、健一はただただ苛立ちを募らせていた。




