第49話 夜風に溶ける涙
本場の強烈なスパイスの洗礼を受け、お腹も心も満たされた私たちは、心地よい満腹感とともにホテルの客室へと戻った。
部屋に入ると、ナナちゃんはすぐにバッグから機材を取り出し、ベッドの上に手際よくセッティングを始めた。
「すみれさん、ちょっと今から日本に向けてライブ配信を始めますね! 視聴者さんがリアルタイムで何を求めてるか知りたくて。見たいものを先回りで撮った方が、お互いにウィンウィンですから!」
彼女が開始したのは、メンバーシップ限定の生配信だった。
日本との時差は三時間半。日本時間がちょうど夜の九時を迎える頃、こちらは夕方の五時半。三十分ほどの短い配信だったが、画面に表示された同時接続の視聴者数は、またたく間に二万人という信じられない数字に膨れ上がっていった。
私は部屋の隅のソファに腰掛け、笑顔でノートパソコンに向かって楽しそうに話すナナちゃんを見つめていた。10日ほど前にマレーシアであったこと、食べたご飯の美味しかったこと、気候や見た街の景色を、彼女はポンポンとテンポよく話していく。
実際はここインドのムンバイにいるのだが、安全面を考慮して、ライブでは大まかに「マレーシアのどこか」と話すにとどめていた。編集を終えて動画を投稿する時期を考えれば、数週間遅れくらいでちょうどいいらしい。画面の隅では、色鮮やかなアイコンとともに「スーパーチャット」と呼ばれる投げ銭が次々と飛び交っている。これが彼女の重要な旅の資金なのだという。投げ銭の集まるライブは、動画のような編集の手間や撮影コストがほとんどかからないため、非常に効率よく収益化できてありがたいのだと、ナナちゃんが登録者への感謝を熱弁していたのを思い出す。
「すみれさんも、Instagramで動画をアップすればいいのに。絶対に収益化できますよ」
配信を終え、パソコンをパタンと閉じたナナちゃんが、なんでもないことのように言った。
実際、彼女がたびたび私のことに触れて拡散してくれるおかげか、私のアカウントのフォロワーは順調に増え、今日現在で一万人を超えていた。「くまのスミレ」が始めた、気ままな旅の写真アカウント。ただの雰囲気重視の記録のつもりだったけれど、ナナちゃんは私のスマートフォンを取り上げると、器用に画面をタップし始めた。
「ただ写真を並べるだけじゃもったいないです! 今日仕入れた布の質感とか、今すみれさんがやってるお直しのビフォーアフターを、短い動画にまとめるんです。ほら、見てください」
彼女の指導のもと、私はおそるおそるリール動画の投稿ボタンを押した。音楽に合わせて、私がピンを打つ手元や、ダスティローズの生地がナナちゃんの身体に吸い付くようにフィットしていく過程が、小気味よく切り取られた動画だ。
『パタンナーの放浪日記:民族衣装を仕立て直す』
そんなキャッチコピーを添えて投稿すると、ほんの数分のうちに、画面の向こうから見知らぬ誰かの「いいね」とコメントが次々と飛び込んできた。
『お直し凄すぎる! フィット感が全然違う!』
『そのドレスの色、すごく綺麗。どこの国の布ですか?』
スマホが震えるたびに、私の胸の奥も小さく震えた。
日本にいた頃、私の仕事は常に誰かの「裏方」だった。ブランドのタグの裏に隠れ、私の名前が表に出ることなんて一度もなかった。ましてや、浮気した元婚約者・健一からは、「洋服を縫うための準備作業」だと捉えられていた節もある。
けれど、今、このムンバイの夜に発信した私の「指先の技術」が、海を越えて誰かの心をリアルタイムで動かしている。
「ほら、言ったでしょう? すみれさんの技術は、世界中で需要があるんですから!」
ナナちゃんは画面を覗き込んでニコッと笑う。
「明日、その洋服を着てクイーンズ・ネックレスを歩きましょう。最高の動画を撮って、もっとバズらせちゃいますからね!」
一息ついた私たちは、ベランダへと出た。
手にしたグラスの中では、冷えたペリエの泡が静かに弾けている。お酒ではないけれど、見下ろすムンバイの夜景があまりにも美しくて、最高の贅沢をしている気分だった。アラビア海から吹き付ける湿った夜風が、火照った肌に心地いい。
「すみれさん、答えたくなければ別にいいんですけど……」
手すりに寄りかかり、夜の海を見つめていたナナちゃんが、遠慮がちに口を開いた。
「どうして、一人でアジアを旅されているんですか? すみれさんの雰囲気って、いわゆるバックパッカーって感じじゃないですし……。会ったのはのマラッカのカプセルホテルでしたけど、それも、なんか違うなと感じてて。ちょっと不思議だったんです」
どこか気遣いの感じられるナナちゃんの言葉に、私は苦笑を浮かべ、ペリエのグラスを揺らした。
「ふふ。そうね。私自身も、らしくないことをしている自覚はあるの。……結婚式がね、中止になったのよ。それも、式のたった一ヶ月前になってね。本当はね……先週の日曜日が結婚式だったのよ」
「えっ!?」
ナナちゃんが、意外すぎる答えに大きく目を見開いた。
「ああ、同情はしないでね。まだ、完全に平気とは言えないけれど、でも、受け入れてはいるから」
私の静かな声に、それでも、ナナちゃんは落ち着かない表情を浮かべている。
「じゃあ、すみれさん《《も》》傷心旅行なんですね。それも、私以上に辛い旅だ……」
「……そうかな。うん、そうね。なんでこんなことになったんだろうって、ずっと考えてたんだけど、正直、今でもよくわからないの」
「そうなんですね。……どうしてかって、聞いても大丈夫ですか? あっ! あの、言いたくなければ、本当に全然、大丈夫ですから!」
慌てて手を振る彼女の優しさが、凝り固まった私の心を少しずつ解いていく。
「ありがとう。……彼がね、浮気をしたのがわかったの。それも、一度きりじゃなかったのよ」
「ひどいっ! 結婚を約束した彼女がいるのに! 最低! ……って、あっ! ごめんなさいっ!」
自分のことのように顔を真っ赤にして怒るナナちゃんを見て、私は小さく笑った。
「ふふふ。怒ってくれて、ありがとう。こうして他人に話せるようになったんだなって、自分でもびっくりしてるわ。……あんなに辛かったのにね」
「すみれさんっ。泣かないでください! 大丈夫です、そんな浮気男、捨てて正解ですから!次はもっと幸せな出会いがありますから!」
ナナちゃんの柔らかい手が、突然、私の両手を包み込んで上下にぶんぶんと激しく揺さぶる。
「えっ? 泣く?」
「えっ! すみれさん、泣いてますよ……話しながら、ずっと……」
言われて、自分の頬に手を当てた。
指先が、温かい水滴で濡れていた。私は、涙が頬を伝う感覚さえわからなくなってしまったのだろうか……。
健一の浮気が発覚したあの日から、式を中止にして日本を飛び出すまで、私はずっと泣く暇もないほど必死だった。会社を辞めた日に真理子さんの言葉に涙を流して以来、一度だって泣かなかった。今ここで泣いてしまったら自分の人生が完全に崩壊してしまう気がして、感情に何重もの鍵をかけていたのだ。
「……本当だわ。私、泣いてる。ごめんなさいっ。ナナちゃんを、驚かせちゃって」
「ううん、ううん……! 泣いていいんですよ、すみれさん。たくさん泣いて、全部ここに置いていっちゃいましょう!」
ナナちゃんは自分のことのように目を潤ませながら、突然、バスルームに走る。そして、戻ってきた彼女の手には、小さなタオルが握られていた。そのホテルのふかふかのタオルを私の手に握らせてくれた。
潮風が頬を撫で、少しずつ冷たい感覚が戻ってくる。
柔らかい白いタオルからは、ほんのり爽やかないい香りがする。拭っても拭っても溢れる涙と一緒に、私を縛り付けていた健一への怒りや絶望が、ムンバイの夜風へと溶けていくような気がした。
「よしっ! すみれさん、明日は思いきりお洒落して、最高にカッコいい姿でアラビア海の夕陽をバックに歩きましょう! その浮気男が画面の向こうでのたうち回るくらい、世界一綺麗な動画を撮りますからね!」
涙目をこすりながら力強く拳を握るナナちゃんを見て、私は今度こそ心から吹き出してしまった。
「ふふ、そうね。ありがとう、ナナちゃん。明日が、すごく楽しみだわ」
ペリエのグラスをもう一度、軽く合わせた。
私はもう、過去を振り返るために世界を歩いているんじゃない。
明日、自分の身体に合わせて完璧にシルエットを整えたあの涼やかなスモーキーブルーの民族衣装に袖を通すとき、私は本当の意味で、新しい人生のスタートラインに立つのだと思えた。
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