第48話 ムンバイの宝石と、よみがえる指先の記憶
ムンバイの午後は、アラビア海から吹き付ける湿った風がカーテンを揺らす。私たちが滞在している「インターコンチネンタル・マリーン・ドライブ」は、その名の通り、街の象徴である海岸線に面している。客室の窓から見下ろすと、オレンジ色の街灯が弧を描いて並び、まるで首飾りを並べたような「クイーンズ・ネックレス」の絶景が広がっていた。
「ねえ、すみれさん。明日はこの夕陽をバックに撮影したいんです。そのためにも、まずは『装備』を整えなきゃ」
ナナちゃんがホテルのフロントで聞き出してくれた情報によれば、ムンバイ随一の布地市場、『Mangaldas Marketマンガルダス・マーケット』の周辺に良い店があるという。私たちは『Bhakti Collection』という、ローカルながらも質の良いパンジャビドレスを揃える店に狙いを定めた。
早速、ナナちゃんは当然のようにGoProを回しながらUberに乗り込んだ。車窓から見えるムンバイの街並みは、コロニアル様式の重厚な建物と、建設途中の高層ビル、そしてその足元に広がる混沌とした路地が入り混じり、凄まじいエネルギーを放っている。
「皆さん!いよいよムンバイの市場に繰り出して、インドの伝統衣装『パンジャビドレス』をゲットしに行きます!」
カメラに向かって弾けるような笑顔を見せる彼女を横目に、私は移り変わる景色を眺めていた。マンガルダス・マーケットへ近づくにつれ、車は激しい渋滞に巻き込まれた。絶え間ないクラクションの音、色鮮やかなサリーを纏った女性たち、果物を山積みにしたリヤカー。すべてが「取れ高」だと言わんばかりに、ナナちゃんは器用にカメラの角度を変えていく。
ようやく店に到着すると、そこは天井まで届きそうなほど色とりどりの布が積み上げられた、夢のような空間だった。
“Hello! Welcome! Can I help you find something?”
(いらっしゃいませ。何をお探しですか?)
店主の男性が、独特のアクセントがあるインド英語で話しかけてくる。巻き舌で歌うようなその発音は、最初は聞き取りにくかったけれど、慣れてくればそのリズムが心地よい。
「私たちも、ジャパニーズイングリッシュだものね。アクセントはお互い様だわ」
私がそう囁くと、ナナちゃんはカメラを回しながら頷いた。
「本当ですね。毎日接客している彼らの方が、絶対に英語は上手ですもんね!」
二人の会話を楽しみながら、私は一ヶ月ぶりに「本業」の熱を取り戻していた。積み上げられた布の山から、指先の感覚だけで素材を吟味していく。インドの容赦ない太陽と湿気を考えれば、肌に張り付かないコットン素材が一択だ。
私はまず、ナナちゃんに似合う色を探した。二十三歳の可愛い系の彼女の、程よく日焼けした健康的な肌には、くすみ系の柔らかい中間色が映えるはずだ。
「ナナちゃん、これなんてどう? ダスティローズのコットン。少し落ち着いた色味だけど、あなたの明るさを引き立ててくれるわ」
「わあ、可愛い……! この色、自分じゃ選ばなかったかも」
私はさらに、同じトーンのベージュピンクのシフォンストールを合わせた。ナナちゃんがその布を肩にかけると、レンズ越しでも分かるほど、彼女の顔色がパッと華やいだ。
そして自分用には、スモーキーブルー、あるいはダスティネイビーの落ち着いたトーンを選んだ。二十九歳の私の、少し青みがかった白い肌と黒髪には、この涼やかな色が馴染む。スカーフはシルバーの刺繍が入った薄グレーのシフォン。指先で生地を撫で、色を重ね、全体のバランスを組み立てていく。
(ああ……私は、こういう工程が本当に好きだったんだわ)
組織の中で、誰かの指示に従って図面を引いていた時には忘れていた、純粋な「選ぶ楽しさ」。布地が持つ無限の可能性を、自分の感性だけで形にしていく高揚感。健一との生活で、いつの間にか磨り減って色褪せていた私の心が、ムンバイの鮮やかな布たちの力で、急速に彩りを取り戻していくのを感じた。
結局、二着合わせて日本円で六千円ほど。日本で買うことを考えれば信じられないような価格だけれど、今の私にとっては、どんなハイブランドの服よりも価値のある「旅の鎧」だった。
ホテルに戻ると、ナナちゃんは早速、購入したドレスを試着してはしゃいでいた。
「すみれさん、見てください! 完璧です!」
鏡の前で回る彼女だったが、パタンナーの私の目は誤魔化せない。ナナちゃんは華奢なので、既製品のパンジャビドレスでは、どうしても腰回りに余分なだぶつきが出てしまっていた。
「ナナちゃん、ちょっとじっとしてて。せっかくの勝負服だもの、シンデレラフィットさせなきゃ」
私はバッグの奥に忍ばせていたソーイングセットを取り出した。これまでの同行費やカウンセリング料代わりの宿泊費への、私なりの恩返しだ。
「えっ、今からお直ししてくれるんですか?」
「任せて。ナナちゃんが編集作業を頑張っている間に、私は世界で一番あなたに似合う一着に仕上げてみせるわ」
私は手早くピンを打ち、彼女の身体のラインに合わせて生地を追い込んでいく。針を持つ指先は驚くほど軽く、迷いがなかった。
窓の外では、クイーンズ・ネックレスの灯りがアラビア海の闇を縁取っている。明日、このドレスを纏った私たちがどんな景色に出会うのか。重い沈黙の中で針を動かしていたかつての私とは違う、新しい物語を紡ぐための針仕事が、静かな部屋に続いていた。
買い物を済ませ、一息ついた私たちは、ホテルのブッフェへと向かった。外はまだ、遠くでクラクションの音が鳴り響く混沌とした熱気に包まれているけれど、レストランの中はスパイスの芳醇な香りと、銀食器の触れ合う上品な音に満たされている。
「わあ……すみれさん、見てください! カレーだけで十種類以上ありますよ」
ブッフェ台に並ぶ、色とりどりの大鍋。ナナちゃんは早速、GoProを構えて料理を実況し始めた。
バターチキンやマトンといった定番から、見たこともないような青々としたほうれん草のカレー、黄金色の豆のスープ。パニールというカッテージチーズがゴロゴロと入ったものまで、そのバリエーションに圧倒される。
「まずは、少しずつ試してみましょうか」
私は、焼きたてのナンをちぎり、まずは一番明るい色の野菜カレーを口に運んだ。
瞬間、幾重にも重なったスパイスの刺激が、鼻腔を突き抜けた。
「……! 辛いけれど、すごく深みがあるわ。日本で食べていたものとは、全く別物ね」
「本当だ、美味しい! でも、この赤いやつ、見た目以上にガツンと来ますね。……ふふ、旅してるって感じがします!」
ナナちゃんは顔を上気させながら、ラッシーで喉を潤している。
高級ホテルの贅沢な空間で、私たちは汗をかきながら、本場の洗礼を受けた。これまで一ヶ月間、マレーシアで食べていた料理とも違う、どこか攻撃的で、それでいて病みつきになるような複雑な味わい。
「ナナちゃん、食べ終わったら、明日からの観光について相談しましょう。このエネルギーに負けない旅を考えなきゃね」
「賛成です! 食べたら、一気にパワーが出てきました」
私たちは、皿に残った最後のスパイスをナンで拭い取った。
胃の奥からじわじわと広がる熱は、これから始まるインドの旅への期待そのもののように感じられた。
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