第45話 ◇ 兄弟の晩餐と、約束
湿った夜気が窓を叩く。かつては華やかな香りに包まれていたマンションの一室には、今、出汁の香りが静かに立ち込めていた。
「お邪魔します。おっ、意外と片付いてるじゃん」
玄関に現れた慎二の声に、健一は少し照れくさそうに、けれど穏やかな笑みを浮かべて応えた。
「ああ。この間は、すまなかったな。……情けない姿を見せた。もう、大丈夫だ。ありがとう」
慎二はスニーカーを脱ぎながら、兄の顔をまじまじと見つめた。
「……まあね。兄貴でも、あんなに凹むことがあるんだってわかったよ。自業自得だけどね」
「ふっ。確かにな。その通りだ、自業自得だよ」
兄弟だからこその遠慮のないやり取り。かつての健一なら「生意気言うな」と一蹴していただろう言葉が、今は不思議と、自分の過ちを地面に繋ぎ止める重石のように心地よかった。
食卓には、カセットコンロの上に土鍋が置かれている。
「寄せ鍋を作ったけど、口に合わなかったら、Uberでも頼もう」
「おっ! 兄貴、料理できたんだ?」
「いや、普段はまったく。お前が来るからと思って、市販の鍋用スープの素を買ったんだ。食材はパッケージの裏に書いてある通りに切っただけだ。あとは、米を炊いたくらいだな」
「あっ、俺、スーパーで焼き鳥とコロッケ買ってきたぜ。これも一緒に食おう」
「いいな。立派な家庭飯だ」
二人の間には、あの日、破談の報告を聞いた時のような刺々しさは消え、静かな時間が流れていた。健一はビールをグラスに注ぎ、二人は短く「カンパーイ」と声を合わせた。
「美味い! 兄貴、実は料理も上手いんじゃない?」
「お前、これ市販のスープだぞ。不味く作るほうが難しいだろ」
「まあそうだけど。野菜の切り方とか、結構丁寧じゃん」
「……すみれの真似だ。彼女がやってた通りに、記憶を頼りにカットしただけだ」
「ああ、まあ……うん。すみれ姉さん、料理上手だったもんな」
「ああ。そうだな……」
すみれの名前が出た瞬間、室内の空気がわずかに重さを増した。健一は箸を止め、どこか縋るような目で弟を見つめた。
「お前も、知らないのか? すみれから、その後の連絡はなかったのか?」
「……うん。兄貴と別れたってことも、すみれ姉さんから書留が届いて初めて知ったんだ」
「ああ、あの書留か。……みんなに詫びの手紙を送ってたんだな。全部、俺のせいなのに」
健一が自嘲気味に呟く。慎二は指を折りながら、届いた範囲を確認するように言った。
「うちの両親と、兄貴と俺。あとは、すみれ姉さんのご両親と、兄貴の友達の松田さん。俺が知ってるのはそれくらいだけど」
「俺が知ってるのは、職場の先輩の真理子さんと……ウェディングプランナーの佐々木さんだな。他は、わからない」
どれほどの人間に、彼女は頭を下げて回ったのだろう。想像するだけで、健一の胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「すみれ姉さんらしいよね。みんなに挨拶状を送るなんて。本当に、しっかりしてて気遣いの人だ」
「ああ。……そういう女性だって、誰よりも知っていたはずなのにな。……バカだよな、俺は」
ふと、慎二の視線が、鍋を取り分ける健一の左手に止まった。
「あれ? 兄貴って、前から指輪してたっけ?」
「……いや」
「えっ、じゃあ、別れてから指輪しだしたの?」
「……うん、まあ。……何かと面倒だしな」
「ああ。兄貴、昔からモテるからね。でも、婚約中はしてなかった指輪を、別れてからするなんてさ。皮肉なもんだね」
「……耳が痛いな。その通りだよ」
かつては「縛られたくない」と自由を求めて外していたその銀の輪が、今は唯一の「誠実さの証明」であるかのように、健一の指を締め付けている。その矛盾を指摘され、健一はただ苦いビールを飲み下した。
しばらくの間、世間話をしながら鍋をつついていたが、不意に慎二のポケットの中で通知音が鳴った。
「えっ! マジか!」
慎二がスマホを覗き込み、驚愕の声を上げた。しかし直後、彼は「マズい」という表情を浮かべて健一から目を逸らした。
弟が隠し事をする時の顔を、健一は見逃さなかった。幼い頃から見てきた、あのいたずらがバレた時の表情だ。
「なに? 俺に知られたらマズい相手か? ……まさか、すみれから?」
慎二の顔が目に見えて強張った。
「いや。違うよ! なんでもないんだって!」
「慎二。頼む。教えてくれ。……すみれなのか? すみれと連絡を取り合っているのか? 教えてくれ!」
健一の真剣な、血の滲むような訴えに、慎二は激しく葛藤した。今の健一は変わった。それは信じたい。けれど、自分を頼ってくれたすみれを裏切ることは、絶対にしたくない。
「……連絡は、取り合ってない。これは本当だ。……ただ、彼女がどこにいるのかは、なんとなく知ってる」
「……どういうことだ? 頼む!説明してくれ」
慎二は観念したように息を吐き、マレーシアから絵葉書が届いたこと、そこに添えられていたインスタグラムのIDのことを打ち明けた。
「そうか。……海外にいるのか。あんなに大好きだった仕事まで辞めて……。全部、俺が奪ったんだな」
「でも! 投稿を見る限り、すみれ姉さんは充実した旅を楽しんでいるみたいだよ。すごく綺麗な景色とか、可愛い『くま』の写真とかさ」
「そうか……。慎二、俺にも、そのIDを教えてくれないか。約束する。絶対にコンタクトは取らない。ただ、見守っていたいんだ。今の彼女が、どこで、何を見て……ちゃんと、笑えているのか。それだけでいい。頼む! お願いします!」
弟に向かって、深々と頭を下げる兄。プライドの高かった健一が、なりふり構わず懇願する姿に、慎二の心は大きく揺れた。
部屋には、時計の針の音だけが響く沈黙が満ちた。
「……約束してくれ。見守るだけにするって。絶対に、自分から連絡をしないこと。もし一度でもDMを送ったりしたら、俺、二度と兄貴とは口をきかないから」
「ああ。わかった。約束する! 絶対に、俺からアクションは起こさない!」
慎二は根負けし、自身のスマホ画面を兄の方へ向けた。
画面に映し出されたのは、マレーシアの夕暮れ時の街並みと、そこにちょこんと座る、小さな『くま』の姿。
健一は、奪うように自分のスマホにそのIDを入力した。
「すみれ……」
画面の向こう側に広がる、彼女が今見ている「世界」。
そこにはもう、自分の居場所はないのかもしれない。それでも健一は、光る液晶を、消えることのない祈りのように見つめ続けていた。
溢れそうになるのを堪えきれず、スマホを見つめたまま静かに涙を流す兄の姿は、慎二の胸を強く締め付けた。
(すみれ姉さん、ごめん。兄貴に教えちゃったこと、許してくれるかな。……俺、どっちの味方とかじゃなくて、二人とも好きだから。ごめん)
ジャカルタへ発つ三週間前。
健一は、かつて自分が捨て去った愛の形を、皮肉にもその小さな画面の中に、必死に探そうとしていた。
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