第44話 ◇ 辞令と、左手の重み
六月の湿った夜風が、都心の喧騒を運んでくる。街の至る所で紫陽花が重たげに頭を垂れ、アスファルトには雨の予感を含んだ熱がこもっていた。
駅前の騒がしい居酒屋の裏手、薄暗い路地裏で、健一は頬を打たれた衝撃に顔を背けていた。乾いた音が壁に反響し、短い静寂が訪れる。
「サイテー! 本当に最低!!」
目の前の女の瞳には、激しい怒りと、それ以上に深い拒絶の色が浮かんでいた。彼女はもう一度何かを叫ぼうとして、結局言葉にならない嗚咽を漏らし、ヒールの音を激しくアスファルトに叩きつけて去っていった。その後ろ姿を追う気力すら、健一には湧かなかった。
ヒリヒリと痛む頬を指先でなぞり、健一は壁に背を預けて低く吐き捨てた。
「いってーな……。最低か。……ああ、わかってるよ。言われなくてもな」
浮気相手だった彼女には、今日、再度、はっきりと言葉にして終わりを告げた。
『前にも言ったけど、婚約者のいる男と寝るような女と、真剣に付き合ってはいなかった。今後も、付き合う気はない。二度と連絡してこないでくれ』
自分でも吐き気がするほど残酷な言い草だという自覚はあった。けれど、そう口にすることでしか、自分の中にこびりついた「甘え」を断ち切る術がなかった。自分勝手な理屈で他人を傷つけ、その痛みで自分の罪を数える。そんな醜悪な連鎖の中に、今の自分はいた。
その翌日の午後、健一は上司に呼び出され、一枚の辞令を言い渡されていた。
「インドネシア、ジャカルタ支社への異動だ。赴任期間は最長で二年。大型ショッピングモールの建築プロジェクトだ。お前にとっても、いい経験になるはずだ。向こうでの生活は楽じゃないだろうが、今のお前には、これくらいの変化が必要だろう?」
上司の言葉には、仕事上の期待だけでなく、私生活を崩壊させた部下への、憐れみを孕んだ「救済」のニュアンスが含まれていた。健一は短く「はい。ありがとうございます」とだけ答えた。
今の自分には、物理的な「距離」が必要だった。日本にいても、街の至る所にすみれの残像が落ちている。お気に入りのパン屋、季節ごとに二人で歩いた並木道、彼女が好きだった色鮮やかな布の店。どこを歩いても、自分の身勝手さが招いた喪失を突きつけられるようだった。
帰宅したマンションは、凍てつくような静寂に満ちていた。
かつては、玄関を開ければ彼女が選んだアロマの香りがし、温かな明かりが灯っていた場所。今は、無機質な空気清浄機の作動音だけが響いている。
コンビニ弁当をレンチンし、冷えた缶ビールのプルタブを引く。部屋は一時期の、足の踏み場もないほど荒れ果てた状態からは脱していたが、すみれがいた頃の、あの凛とした清潔感には遠く及ばない。
それでも、彼女がいつ戻ってきても、あるいはいつかどこかで偶然再会しても恥ずかしくないようにと、脱ぎ捨てたシャツを畳み、身だしなみだけは整えるようになった。鏡の中に映る自分は、皮肉なことに、不誠実を極めていた頃よりもずっと「真っ当な男」のように見えた。
相変わらず、社内外の女性から色目を使われることは多い。ジャカルタ行きが決まってからは、独身の若手という肩書きは、より一層魅力的あるいは都合が良いように見えるのだろう。
エレベーターの中や打ち合わせの合間、お構いなしの「秋波」が送られる。
かつての自分なら、その好意を器用に受け流しつつ、自分にとって都合の良い部分だけをつまみ食いしていただろう。婚約者がいるという事実は、むしろ自分を縛らないための便利な免罪符でさえあった。その頃は、自由を求めて、左手の薬指に指輪などしていなかった。
けれど、今は違う。
ふと、自分の左手に目をやる。
薬指には、銀色の指輪が鈍い光を放っていた。
結婚が破談になり、婚約者に捨てられ、法的な繋がりも何もないというのに、この指輪だけが呪縛のように指に馴染んでいる。かつてはあんなに窮屈だったはずの重みが、今は自分の「未練」の象徴として、肌に食い込んでいた。
「俺って……最低な上に、救いようがないほど未練がましいな」
自嘲気味に笑い、温くなったビールを煽る。
明日は、慎二と会う約束をしている。すみれのことを今でも気にかけている優しい弟。彼なら、彼女の行方について、あるいは彼女の今の心境について、何かわかるかもしれないという、淡い、けれど唯一の希望。
ジャカルタへの出発まで、あと一ヶ月。
新しい土地へ向かうことは、彼女との繋がりを物理的に断つことを意味する。それでも健一は、この指輪を外すつもりはなかった。
かつての自分が軽んじ、踏みにじっていた「誠実さ」という名の重石を、彼は今さらになって大切に抱えていた。異国での二年という歳月が、自分を変えるのか、それともただの長い罰になるのか。
ジャカルタのショッピングモールの図面を広げながら、健一は遠い国の空を思った。そこにはきっと、今の彼が知る由もない、もっと鮮やかな色彩の世界があるはずだった。すみれがどこかで、その色彩の中にいることを願いながら、彼は独り、暗い部屋で過去の糸を解き続けていた。
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